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礼拝説教原稿-A③2020.1.19聖書箇所:エレミヤ10章8節+14節 泉南聖書教会 大寺俊紀
「空しい神々の訓戒」
―それは木に過ぎない-
はじめに:聖書一日一章を読んでいるが、私が説教の用意をする際は,火~金曜日で、次の日曜日までの箇所を先行して読み、説教を作る。特にエレミヤ書の場合は,エレミヤが10章だけでなく,ずっと毎日語り続けていることに触れずに,10章だけを語るというのは、矮小化しておかしいことになる。~但し、新約の場合は,章ごとに三つほどの主題があり、平均して1章だけで説教が3つ出来るから、数章をまとめて話すのは避ける
~そこで、10章の偶像については最後に触れることとして、この一週間の主の悲しみのことば、激しい訴えのことばを沢山書き並べて,主の思いを聞きたいと思う。

一,北からのわざわい
1)忌まわしいものを取り除け*4章1-)
●主は言われる。「イスラエルよ、もし帰るのなら、―主のことば―わたしのもとへ帰れ。もしあなたが忌まわしいものを わたしの前から取り除き、迷い出ないなら、また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、・・・」*4:1-2)
●ついで、主は言われる。
「シオンに向けて旗を掲げよ。自分の身を守れ。立ち止まるな。わたしが北からわざわいを,大いなる破滅をもたらすからだ。」と。*4:6)
さらに、14節では「エルサレムよ。救われるために,悪から心を洗いきよめよ。いつまで,自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。」
「あなたの生き方と、あなたの行いが,あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」とある。
●19節では主のことばを聞くエレミヤの苦しい胸の内が語られる。
「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶(モダ)える。私の心臓の壁よ,私の心は高鳴り、私は黙っていられない。私のたましいが,角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ。破滅に次ぐ破滅が知らされる。まことに地のすべてが荒らされる。・・・」
●しかし、民は気付かない。「実に、わたしの民は鈍く,わたしを知らない。愚かな子で悟ことがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことは知らない。」*22)
「『全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。』」と主は言われる。
2)「そこに公正があるか?・・・エルサレムの通りを行き巡ってみよ。」*5章) 
●厳しいエルサレムへの裁きが下される理由が語られる。
まず、『エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。』*5:1)と言われる。
「もしも、だれか公正を行う,真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう』と言われる。そして、『彼らが、主は生きておられる、というからこそ、彼らの願いは偽りなのだ。』と。*2」
➡5章2節の主のことばは、「信仰があると見せながら、実質的には主を否定する,主のことば、律法を守らない,」それは最初から主を否定する者より一層悪質であると言われる。
クリスチャンである,牧師、神学者であると言いながら、「聖書批評節」や、進化論に従い、「6日の創造を否定する」神学に立つ者も同じではないか。
●エレミヤは,「主の道を知らないのは、エルサレムの卑しい者たちにすぎない。『身分の高い者たちのところへ行って,その人たちと語ろう。彼らなら,主の道も,自分の神のさばきも知っているから』」と言う。しかし、・・・
*3)「ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」*5)「あなたの子らはわたしを捨て,神でないものによって誓っていた。」
➡偶像礼拝、異教の神々を恋い慕っていた。
➡だから、主はこう言われる。「これらについて、わたしが罰しないだろうか。―主のことば―このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」*9)
●11節では、・・・「実に,イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。「―主のことば―彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も,私たちは見ない』と。」*12」
➡だから、主は宣言される。「見よ。わたしはあなたがたを攻めるために,遠くの地から一つの国を来させる。」そして、その攻撃の詳細も示される。15-17)
●その理由はこうである:「『われわれの神、主は,何の報いとして、これらすべてのことを私たちにしたのか』と尋ねられたら、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨てて,自分の地ではない地で,他国の人に仕えるようになる。』」
●そして、5:21で言われることばは,イザヤが召しのときに聞いたことばと同じである。
「彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。・・・」*21)
●エルサレムの指導層たちの罪とは何か?28節に具体的に書かれている。
「彼らは肥えてつややかになり、悪事において限りがない。孤児のために正しいさばきをして幸いを見させることをせず、貧しい人々の権利を擁護しない。これらに対して、わたしが罰しないだろうか。」*28-29)
●同じことが、6章13節からも書かれている。
「―主のことば―なぜなら,身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」*13)「・・・彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。」19)

二,生き方と行いを改めよ*7章)
1)役に立たない偽りのことば*7章)
●7章には,主の怒られることが全部書かれているから順番に見たい。
① 弱者への無慈悲な行い:「寄留者、孤児、やもめを虐げず,咎なき者の血を流さず,他の神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、」6)とある、
② 「あなたがたは盗み、人を殺し,姦淫し、偽って誓い,バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。*9」
④ 「天の女王」のための供えのパン菓子を作り、また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こそうとしている。」*18)
⑤ 預言者をたびたび遣わしたが、耳を傾けなかった。*25)
⑥ 「また、自分たちの息子、娘を火で焼くために,ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく,思いつきもしなかったことだ。」*31)➡そこは、『虐殺の谷』と呼ばれる。この民の屍が満ちる。主の復讐(8章)
この「幼児犠牲」は凄まじかったらしい。近年の考古学者たちが、カナンの偶像礼拝の遺跡を発掘し,祭壇の下に,大量の幼児の骨があることを見て,「主はどうしてもっと早く彼らを滅ぼさなかったのか」との声を出している。
2)主の、悲しみのことば・呼びかけ*8章)
●主の悲しみのことばは続く:
「あなたは、彼らに言え。『主はこう言われる。人は倒れたら,起き上がるものではないか。離れたら,帰って来るものではないか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。・・・』*8:4-5」
「わたしは気を付けて聞いたが,彼らは正しくないことを語り、『わたしは何ということをしたのか』と言って、自分の悪を悔いる者は,一人もいない。・・・空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も,自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」*8:6-7)
●8:11では、根拠のない「平安」を言う者をしかる。悔い改めの勧めをせず、主の御心を伝えない者である。「預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ,平安だ」と言っている。

➡この11節のことばを聞いたとき、終末に望む今日の場合、私は、「キリスト再臨の七年前に『軽挙』があるから、平安だ」と言う解釈(安心神学)のことばを思う。勿論、再臨が早くて患難から守られることは、そうなればよいが,解釈通りとは限らないから、聖書預言の一つの解釈に限定するのは同じ轍を踏むことになる危険が高い。

●裁き(バビロン捕囚)を下さざるを得ない悲しみ、その主の悲しみは13節にもある。
*8:13)「わたしは彼らを刈り入れたい。―主のことば―しかし、ぶどうの木には,ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。」
3)「涙の預言者・エレミヤ」*9章)
●9章1節のことばはとても有名で,エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれる由縁であるが、このことばも主の思いによるものである。
「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら,娘である私の民の殺された者たちのために,昼も夜も,泣こうものを。」*9:1)
しかし、主の裁きは下る。「『彼らの舌はとがった矢。人を欺くことを言う。口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む。わたしが彼らを罰しないだろうか。―主のことば―このような国に、わたしが復讐しないだろうか。』」*9)
●主の「義」とは?
創造主(神)の義とは、「何でも赦す」ということではない。
真実の中に偽なるもの、不義は共存できない。光の中に闇は存在できないのと同じ。
*伝道者10:1「死んだハエは,調合した香油を臭くし、腐らせる。」しかし、罪に気付いて悔い改めるものは赦され,なかったことにして下さる。
一番の問題は,彼らが罪を認めず,悔い改めず、行いを改めなかったこと。

三,諸国の道に見習うな*10章)
1)空しい「神々」
●10:1-5)「主はこう言われる。諸国の道を見習うな。天のしるしにうろたえるな。」
それは「空しい」と。なぜなら、「それは,林から切り出された木、木工が、なたで作ったものにすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や槌で、ぐらつかないように打ち付けられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものを言えず,歩けないので,運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」
●NHKの朝ドラ、TV朝日の昼ドラでも、死者がたびたび登場し語りかける。「まるで,死者は私たちを守ってくれているように。」しかし、そのような先祖からの言い伝えは、全く根拠がなく、怒りを受ける。聖書は太陽などへの礼拝、偶像礼拝、死者礼拝に厳しい。ただ、世界的に見ると,日本のような死者礼拝はごくまれであり、聖書の中の記述も多くない。
*Ⅰペテロ1:18-19)「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの,尊い血によったのです。」
*同1:21「あなたがたは,キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。・・・」
2)その中には息がない*14)
●次のページには資料として,「偶像の神々」なるものを並べている。造形的に,又歴史的に面白く、「観光」には面白いが、人の手で作られた作品であり、そこにはことばがない。主は言われる。「すべての人間は愚かで無知だ。全ての金細工人は,偶像のために恥じを見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時にそれは滅びる。」14-15)
●しかし、聖書の神=創造主を信じる者は「このようなものではない」と言われる。
*10:16)「ヤコブ(=イスラエル)の受ける分はこのようなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主のゆずりの民。その御名は万軍の主である。」
3)神(創造主)以外のものが第一なら,それも偶像
●「偶像」というと、仏像や動物の像だけと誤解する人もいるだろう。しかし、「タレント,歌手」などを「アイドル=偶像」と呼ぶことからみても、芸能人の追っかけ、スポーツ、アートや映画、学問など、あらゆる人間の「趣味、嗜好、仕事」も偶像化する危険がある。
「仕事第一、家族第一」「家族優先でそのために礼拝に来ない」「芸術至上主義」も同じ。
●それら全てを与えて下さっている創造主を忘れるところに偶像が出来ている。
●祈り
資料:世界の偶像
1段目:左から、アンコールワット、マチピチュ、マヤ、 2段目:仏像、大仏
3段目:メキシコのマヤ 4段目:アンコールワット

礼拝説教原稿-A②2020.1.12聖書箇所:エレミヤ3章22節 泉南聖書教会 大寺俊紀
「背信の子らよ立ち返れ」
―わたしがあなたの背信を赦そう-

はじめに:66日間=約2ヶ月間続いたイザヤ書は、「天地万物の創造者としての、力強い宣言がなされ、永遠の未来になされる救いの完成も告げられると同時に、救い主キリストの処女降誕=インマヌエルから(7章)十字架での受難(53章)、そして、来臨されたときの愛に満ちた癒やしのわざまで(61章など)も告げられていた。最後には、「天を裂いて降りてこられる」とも教え(64章)、新しい地球を再創造される約束(65章17-25)もなされていた。但し、ユダの背信によりバビロン捕囚を受けることも含まれていた。(39章)
続くエレミヤ書は、年代も進み、ヨシヤ王から、エホヤキム、ゼデキヤ王の最後の第11年の終わり=捕囚の月まで続き、イザヤ預言の通りにバビロン捕囚が実際に進行している渦中にあって、預言者として最後の悔い改めのメッセージを発することが中心となっている。
イザヤの場合は、ユダだけでなく、全人類への愛と癒やしのメッセージとして格調高く宣言されていたが、エレミヤの場合は、目の前にあるユダの捕囚の渦中で、ユダに最後の悔い改めを求める、痛々しい、悲しみのメッセージが中心となっている。

一,主の聖なるものイスラエル
●エレミヤの召命*1章)
〇エレミヤ書も、他の書と同じく預言者自身の召しから始まる。ユダの王アモンの子ヨシヤの時代、治世の13年目で(2)、主のことばは、その後も、ヨシヤの子エホヤキムの時代、ゼデキヤの第11年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月。エルサレムの民の捕囚まで続いた、とあるから、まさに激動の時代の渦中の、主のことばと言えよう。
 エレミヤに対して、主は「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」と語りかけている。当然のように、エレミヤは固辞する。「私はまだ若くて、どう語って良いか分かりません。」と。しかし、主は「まだ若い、と言うな。…遣わすすべてのところへ行き、わたしが命じるすべてのことを語れ。・・・」7)「あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」10)
●聖書をまだ信じられない方々に、是非知って欲しいのは、聖書が次のように書かれていることである。
エレミヤ書は、既に2600年も経過するが、このように、一人の人間が勝手に考えて書いた書、或いは始めた宗教ではなく、数千年という年代を通じて、次々と、「信仰者、預言者」を見出して選び、ある時期が来たときに「直接」声をかけて呼び出され、本人が固辞しても、明確に主の召しを教えることによって、本人も納得して「ことばを受け」それを語り、又記録されていく。しかも、その書かれたことは、どの時代、どの王の何年目の何月と記録され、正確に記録される。そして、その語られたことばは、預言者から王、祭司、指導者たちに告げられ、彼らの反応や対応も記述される。
 さらに驚くべき事は、預言者イザヤの時代にアッシリアの攻撃があったにも拘わらず、主の約束通りにアッシリヤが撤退して(御使いが一晩で18万人を殺す)、帰国後にアッシリア王が世代交代しているが、聖書は、それはアッシリア王が帰国後に息子に殺害されたと告げている。
 又、イザヤはイスラエルが、後にバビロン捕囚を受けること(70年後の解放も含めて)を預言していて、その捕囚が実際に起きた時代にエレミヤが預言者として召し出されて、「最後の悔い改めが求められる主からのことばを伝える」という、大激動の時代が進行する中で聖書が書かれ、すべてそのとおりに歴史が進行しているということである。
これらを通して、聖書の真実性を知って欲しいと強く願っている。
2)バビロン捕囚は70年
●1-3章には出て来ないが、今まさに始まっているバビロン捕囚の渦中の中で、エレミヤはその捕囚が70年であることの預言も与えられ、実際に、そのことば通りになる。
*エレミヤ29:10「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。・・・』
この事も、聖書が時空を超えた、永遠に存在される主のことばであることを保証している。

二,イスラエル(=主を求める者)への愛
●イスラエルを通して愛を教える主
●ここで、一つ大事なことがある。エレミヤは「イスラエル」の為に預言者となり、彼らに語り、彼らに下される裁きについてとりなしの祈りをしるが、この「イスラエル」とは誰のことだろうか?
①一つは、「肉のイスラエル」と呼ばれる、血筋(民族)としてのイスラエル人である。2020年の今、イスラエル在住のイスラエル人は約1千万人との報道があったが、全世界に離散して暮らしているイスラエル人も多い。第二次世界大戦の時にはナチスドイツから約600万人が殺され、その後イスラエルに戻ろうとのシオニズム運動が起きて、無事1948年にイスラエル国家が回復し、国連でも承認されたが、それ以前は1900年間離散の民だった。しかし、実に不思議な導きにより、奇跡的な国家再建を果たした。
●元はと言えば、アブラハム一人が選ばれて主に愛された民の祖となり、その後BC1000頃今のイスラエルの地(カナンの地)に「イスラエル国家」を築いた民である。(統一国家の王はダビデ)このアブラハムの直接の子孫が「肉=血筋としてのイスラエル民族」である。
●アブラハム一人から始まり、その子イサク、ヤコブから増えた民であるが、70人でエジプトに下り、その後奴隷となり、人数が増えてから、モーセによって約束の地=カナン=イスラエルに戻ることが出来た。その後、ダビデの時代には統一王国となり、その後分裂、アッシリヤ、バビロンの攻撃を受け、バビロン捕囚を経験するが、元に復帰を赦される。そして、キリストを迎えるが、紀元70年に崩壊して、約1900年間流浪の民となるという経験をした。
②つ目は「霊のイスラエル」と呼ばれる、信仰により義とされた者である。
 「アブラハムは(創造)主を信じた、それが義と認められた。」同じように、創造主を信じる者、キリストの救いを信じる者も、義と認められるのが聖書の教えである。
*ローマ4章16節「そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。」
*24-25節「すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」
●そもそも、イスラエルとは、
 アブラハムの子イサクの、2人の息子エサウとヤコブの、弟ヤコブが、兄から逃げて叔父ラバンのもとに行き、そこで、生まれた12人の男子や娘を連れて帰ってくる際に、兄への恐怖から一晩中救いを求めて祈った際に、そばに来た「御使いと一晩中格闘して御使いに勝った」ことから、「あなたは神と争って勝った」として、「神(エル)と争う(イスラ)者」=「祝福を求める者」とされている。以後、主の救いを求め、祝福を求める者は「霊のイスラエル」と呼ばれることとなった。それは、血筋・民族としてのイスラエル人でなくても、全世界のクリスチャンにも当てはまる。

三,背信の子らよ、立ち返れ*3:22)

1)背信のイスラエル、裏切りユダ*11)
●エレミヤ2章では、ユダ(エルサエム)とのとても良かった関係を、「真実の愛」として回顧している。*2:2「・・・『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。』
●しかし、その良い関係は約束の地に入るに従って徐々に悪くなっていた。
*2:7「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたが入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものとした。」
①イスラエルが主を裏切って悪い関係になったのは、まず、主を捨てて、周辺諸国の偶像礼拝を真似て取り入れたことである。それは主の最も忌み嫌うことであったから、再三再四教えられていた。
*2:27-28「(王、首長、祭司、預言者たちと民)彼らは木に向かって「あなたは私を生んだ」と言っている。実に彼らはわたしに背を向け、顔を向けない。それなのに、わざわいのときには『立って、私たちを救って下さい』という。では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか。・・・」
②二つ目は、アッシリヤ、バビロンからの攻勢を受けて、主に救いを求めず、アッシリアに援助を求めていったことで、2章18節に書かれている。
この事は、いつの時代も同じ事である。現代も軍事力、軍事同盟に頼る、あるいは政治闘争だけに頼ることは、主を否定することになる。政治的な行動も一定必要なことはあるが、それだけで解決しない。主が最善をなして下さることを祈り、みことばに従うことが最も大事である。
*2:18「今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリアへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。」

2)背信のイスラエルよ帰れ!*3:12-
●3;11からは、主のイスラエルへの、悲痛とも言える程の慈愛に満ちた愛のことばである。
*3:11-12「行って、次のことばを北の方に叫べ。
『背信の女イスラエルよ、帰れ。―主のことば―
わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。
―主のことば―
わたしは、いつまでも恨みはしない。ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。』
●13節にあることばは、「外国の勢力に頼り、偶像礼拝に頼った」ことを、主に背いたと言われている。この「イスラエル」は、民族のイスラエルだけでなく、私たちも同じく呼びかけられている。
① 死者を礼拝し、神社、仏閣に行き、
② 進化論に従って創造主を否定してきた不信仰。
③ 自らの不信仰の罪を悔い改めずにきたことは、「主に背いてきた罪」として認め、悔い改め、赦される事が必要である。
③  特に、殆どのに日本人は、天地万物と、空気、水、命、そして自分の体も心も造って下さった創造主を否定し、礼拝してこなかった!この事は、最も強い怒りを受けることだと知って欲しい。教科書やテレビの放送も進化論一色で、「神でないもの」を神とし、正月は神社にいくものは「善男善女」と呼び、正月が明ければ、「商売の神様」と呼んで、えびす神社の放送が盛んになされ、誰一人疑問を出さない。
 このような不信仰な日本人は、必ず、厳しい怒り、裁きを受ける。
●しかし、主は言われる。「わたしはいつまでも怒っていない、わたしは恵み深いから」、「ただ、あなたはあなたの咎を認めよ」と。
主の恵みは大きく、既に救い主イエス様を送って、それも身代わりの十字架にまで送って、赦しを完成して下さっているから、私たちは、咎を認め、赦し=贖いを感謝して受け取るだけである。
●祈り

礼拝説教原稿-A① 2020.1.1 聖書箇所:イザヤ58章13-14節 泉南聖書教会 大寺俊紀

「安息日とは・・・」2020年頭礼拝

―どちらの道を歩むか-

はじめに: 一年の最初の日の朝、今、ここにいて創造主なる神のことばを聞く人は幸いである。それだけではなく=今日だけでなく、常に安息日に主の前に来て礼拝し、ことばを聞く者はさらに幸いであると、主は言われる。今朝は、このこと(安息日)をわかりやすくお話ししたい。

 

一,「善悪を自分で選ぶ道」

1)善悪の知識の木の実を食べる道 ~その人の安息日の過ごし方、考え

①そもそも

「人は進化の結果、いま存在している」=偶然であり、創造主はいないから、仰ぎ見る(=礼拝)は必要ない」と考える。

人生とは:

〇努力して働き、役に立つこと、認められることをして(その為に学び)、それが一定成功すれば良し、不十分でも仕方がない。

〇一部は努力や環境の結果、恵まれて成功し、出世、高収入、高評価=名声を得て人生を全う出来れば、満足する。成功しなくても諦めしかない。(但し、老・病・死の不安が襲う)

罪と死

〇自分は悪い事はしていないし(警察の世話になったことはない)、誰かに被害を与えたこともない。もめ事とかあったが・・・(人並みだから良い)

〇誰でも、老・病・死が襲ってくるから仕方がない=諦めしかない。「死後は無である、又は自分は良い所(死者の世界)に、多分行けるだろう。」

実際は、高齢になっての寝たきりなどは辛く、「早く死にたい=解放されたい」と言う人が多い。

④特に、次のような危機の時は:どんな不安が襲うだろう

〇例えば自分に重い病い(依存症、精神疾患も)がある、親にもあるから頼れない。仕事に就けない(低収入)。施設には入れない。入っても辛すぎる(規則についていけない、怒られる)

29日の男性:

〇精神科患者、或いは依存症などでなくても、60を過ぎれば、どの病気で倒れても仕方がない。自分が病気、伴侶や子どもの病気、引きこもり、神経障害などを抱えても大変。「何もない」というのはまれであり、いつまでも元気ということは困難。

〇健康保険や社会保障、年金なども頼れない人もいる。又、いつ破綻するかわからない。そのときは「難民」状態に陥る。

〇今はそうでないと言っても、いつ襲うかも知れない危機。その備えは「お金」だけでない。

  • 大地震、戦争などになれば、すべての補償、身を守るものがなくなり、難民状態になる。核戦争では、第二次世界大戦の比ではない。国土再建もない。聖書の終末預言に近づく。

⑤無神論思想の人の安息日

  • 日曜が休みの理由を考えない。常識や、ただの権利だと思っている。
  • すべて自分の休養と余暇を中心に過ごす。
  • 教会の礼拝に使うのは「無駄」「意味がない」と思う。
  • 聖書の警告を知らず、聞いても馬鹿馬鹿しいと思う。・・・

人生の危機の時:どこに希望があるか?望んでも、死後の希望はゼロ!

虚無思想。主を信じない者の無と、絶望と恐怖を自覚して欲しい!

 

二、聖書の教えに従う者

2)聖書の教えに従う者、主の声に聞く道 その人の安息日の過ごし方、考え

  • そもそも

「万物は創造主の作品。偶然でなく、計画され、デザインされて創造された方、見事にバランスを取り、維持されている。被造物は美しい。優れている。仰ぎ見る(=礼拝)ことが必要。

  • 創造主、救い主の力と愛を信じることが信仰であり、それは愛され守られる。「創造主なる神の子」とされる約束。

② 人生とは:

〇学び、努力して働き、役に立つこと、認められることも必要と考えて実行する。それが一定成功することも良い。しかし、自分に与えられている主のご計画(御心)を示されると、そのことも人生の重要なこととして取り組むことが多い。それは、社会的成功や経済的な充実だけでない。

〇努力や環境の結果、恵まれて成功し、ても、それを自分だけのために誇り、使おうとはしない。出来れば、主の御心をなしたいと思う。救いの素晴らしさを伝えたいと願う。

(クリスチャンの政治家、学者、実業家なども、自分の楽しみだけでなく、その賜物を用いて世のため、人のため、神のための人生を選ぶ)

③「罪と死」

  • 老・病・死は怖れがなくなる。解決が与えられている。

〇自分は警察の世話になったことはなくても、色々な罪(心やことば)があり、特に不信仰の罪があった。人並みだから良いということでなく、主に悔い改め、赦されることを教えられて従った。だから、罪が赦され、平安がある。

〇老・病・死:老いは避けられないが、主が御心によって、守って下さっている。

「死」も今の世では一度は仕方がないが、解決されている。イエス様の十字架の身代わりの死によって罪と死が解決されている。諦めは必要ない。死後」は必ず天に上げられる。死者の世界=よみには行かない。後に、復活のからだが与えられる確かな約束を受けている

④特に、次のような危機の時は:

  • 同じように、個人的な「老病死」以外にも、社会的、世界的な危機もあるかも知れないが、主はすべてご存じであり、守って下さる、又、救い出して下さると信じ、委ねている。
  • 皆に祈って戴く。●聖書には、終わりの時の困難、患難も預言されているが、主に委ねる。

⑤安息日の過ごし方:

  • 日曜は「創造主によって与えられたもので、主の御前に出るためにあるから、一年中、礼拝に出ることは当然と思い、実行する。それは当然のことで、苦にならない。休息が必要なら午後に休む。娯楽を優先しない。
  • 大事なことが語られ、教えられる。主に奉仕も出来る。交わり(交流)も出来る。

⑥最大の希望:復活、永遠

  • キリスト再臨の時に生きていれば、死を経験しないで永遠のいのちと体を受ける。

既に召されていても、体がよみがえるとの約束。それが、キリストの復活で保証。

  • イザヤ25章6-8節では、「エルサレムの山で死を滅ぼす」とあり、詩篇22編、イザヤ53章でも、私たちの罪の身代わりの死と復活を預言されている。

*イザヤ25:7-8「(万軍の主は)この山の上で、万民の上をおおうベールを取り除き、永久に死を飲み込まれる。・・・」

⑦真の親(創造主)ならどう思うか?

  • 人間の親の場合は、仮に生まれてくる子が、次々と1才以下で亡くなれば、どう思うだろうか?平気でおれるだろうか?・・・医師とも相談して、なんとかして成長できるようにするだろう。(駄目なら、出産は諦め?)
  • 創造主なる神も、ご自身が永遠の方で、死がないのだから、「死の原因を取り除き、死を解決する」ことをなさるだろう。人間の死の原因が「不従順、不信仰の罪」によるのだから、それを教え、解決される。「人間が気付き、人間の解決できない罪の赦し」を、「身代わりの刑を受けることによって解決して下さる」方法を取って下さっている。十字架の死

人間は頑なだから、理解できるように、長い年月をかけて預言者に伝えさせている。そして、言われる。

*イザヤ44:6-8「イスラエルの王である主、これを贖うかた、万軍の主がこう言われる。『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしの他に神はいない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前に並べたててみよ。彼らに未来のこと、来たるべきことを告げさせてみよ。おののくな。恐れるな。以前からわたしがあなたに聞かせ、告げてきたではないか。』」

 

三,安息日の教え*出エジプト20章、創世記1,2章)

1)いつから安息日があるか?

  • 先日、子どもたちに安息日(日曜休日)のことを話した。「いつから、だれが始めた」と思いますかと質問すると、皆はわからない。一人の子が「天皇陛下?」と・・・。
  • 3500年ほど前、創造主である神がモーセを通して命じられ、教えられた十戒の5番目。

出エジプト記20:1-11(抜粋)

  • あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
  • 偶像禁止。③偶像礼拝禁止。④主の御名をみだりに口にしてはいけない。

「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。⑥「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」・・・⑦、⑧、⑨、⑩

  • 江戸時代までは、日本では日曜の休みはなかった!正月と藪入り、年間数日だけ。

明治になり、外国の憲法を取り入れてから休日が普及、戦後特に民主憲法になって。

その「外国の憲法」は、聖書から出来ている!つまり、創造主、聖書のお陰で私たちは安息日=休日を得ているのである。それは、自分の楽しみ、休息だけでなく、主を礼拝し、ことばを聞く、「聖なる日」としなければいけない。

2)生態系、体内時計には・・・

  • 実は、この安息日が偶然に自然に決まったものでないことを知る根拠がある。

①一つは、「生態系」の法則と言えるものである。先日、ある美術家の方が、「子ども(孫?)から「正月って何?」という質問を受けて、どう説明しているか困っている」との投稿があった。子どもは3才程度かなと思うが、ある女性が「一年の始まりと教えたら?」と書くと、「という概念が理解できない」との返事だった。

一日は昼と夜で出来ている。それが七日(7回)で一週となり、七日目に日曜=休みがある。ほぼ四週で月となり、四つの月で冬、春、夏、秋となっていて、植物(果物や穀物)が花を咲かせ、実をつけ、収穫でき、人も鳥や動物たちも生きている。すべての生きものに、その「体内時計」があり、生態系をつくり、太陽、月などもそれに加わって動き、地球や星たちも、その中で、大きく一回りするのを一年という。

  • これらを考えれば、毎週の安息日は、創造主が下さったものであり、それを感謝し、ことばを聞き、礼拝からスタートするのが被造物の基本的な役割だと理解できるではないか。
  • 進化論や親が神とする考えは、「猿の子」でしかなく、正しくても何も与えられず、間違いなら永遠の地獄。単純確率で50%。こんな危険な賭をしていることになる。
  • 一方、創造論、聖書の神を信じる場合は、神=創造主の子とされる。それが間違いであっても失うものは何もなく、正しければ、単純計算で50%、素晴らしい栄誉、恵みを受ける。

 

  • 何も希望がなく、裁きが待っている不信仰か、信仰を求めるか。安息日を主の礼拝にするかどうか、主が問いかけておられる。
  • 58章の13.14節を一緒に読んで学ぼう。

●祈り

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