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礼拝説教原稿-D① 2019.11.10 聖書箇所:イザヤ6章1-13節

泉南聖書教会 大寺俊紀

はじめに:今日は、イザヤ6章の、イザヤに主のことばが与えられた聖書箇所である。偉大な預言者イザヤが召されるとき、主は実に「不思議なことば」を与えられた。「民に語れ、悟らせよ」というのではなく、逆のことばを与えている。何故だろうか?このことばは、ある意味で、今の私たちにも突きつけられている気がする。

一,素直な子ども

1)目を輝かせる子ども、しかし、大人は・・・

●午後も、冒頭に、少しだけ同じ事を話す予定であるが、子どもは、やはり基本的に素直で、反論する前提や疑いを持たずに、白紙で聞いてくれる。2日の昼前に絵を展示していると、絵の生徒の男の子が私に絵の質問をしてくれた。少し答えると、次々と質問が続き、納得するまで続く。途中で、私の説明を疑うことや反論することがない。だから、本当に話しやすい。イエス様が、「子どものようにならないと天に上がれない。この子どものような者が天国では一番偉いのです」と言われたとおりである。

 唯、子どもだけが主日礼拝に来るなどは親が許さないから、子どもへの宣教は答えが出しにくい。いつか、大きくなってから、蒔いた種が実を付けることを祈るしかない。例えば、青年になって、自分の意思で教会に来る等を期待したい。或いは、生徒の親が、今日の午後のようなコンサートに来てくれる機会に語ることだろう。

幸い、アトリエや英会話などで教会に出入りして下さる皆さんは、親近感を持っていて下さり、教会の敷居を高く見ておられないと思うので、みことばを語る機会が増えることを祈りたい。

●大人の英語バイブルでは、最近、特に感じるのは、「主が備えて下さるときが来ないと、心が動くことはない」と強く感じている。それまでは、一回の内容を少なくして、みことばを少しずつ、心に貯めていただくことを中心としたいと思う。イザヤが言われたとおり、「語り続けよ。しかし、悟ることがないと覚悟して」、と言われているように感じる。それは、語り続け、種を蒔き続けておけば、いつか「何かの」時が来る、求めるときが来る、と。

*伝道者11:1「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。あなたの受ける分を七,八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起るかをあなたは知らないからだ。」

2)イザヤの召命*6:1- )

●ご存じの通り、私は昨年から「新天新地」を絵に描いているが、そこには、このイザヤが見たような、怖れを感じるような御座の様子を描いていない。黙示録の新天新地の記述では、ここにある「セラフィム」の記述がないためである。

イザヤが見た天の御座(父がおられる最高の座、しばしば子=キリストもおられる)には、セラフィムがいて、それぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいる。(2)そしてこう呼び交わしている。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」3-4)

●イザヤは言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」5)

●この天の御座は、他の預言者も見せていただいている。(少しだけ)

エゼキエルの場合は、~まず四つの顔と四つの翼を持つ姿を見る。顔は人間のようだが、右側は獅子の顔、左側には牛の顔、鷲の顔も持っている。姿は燃える炭火、たいまつのようで稲妻が出ている。又、輪が一つずつある。それらは四方のどの方向にも進む。

生きものの頭上には、まばゆい水晶のような大空に似たものがあり、高く拡がる。翼の音はとどろきのよう。全能者の声のよう

彼らの頭上、大空のはるか上の方には、サファイアのように見える王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にあるのようであり、主の栄光の姿のようであった。私はそれを見て、ひれ伏した。

➡今回の作品のうちの下の一枚では、セラフィムを除く御座の栄光を描いているが、黙示録では、セラフィムは全く記述がないから、静かな穏やかな状態で、人に優しく現れて下さっているのであろうと思われる。「まばゆい水晶のような大空に似たもの」と「雨の日の雲の間にある」を上方に描いている。(都の明かりである子羊も静かに十字架で描いている。)

3)イザヤのきよめ*6-7)

●旧約聖書では、「主の姿を見た者は死ななければならない」とあり、エゼキエルと同じように、イザヤも死を覚悟するが(5節)、セラフィムのひとりが飛んで来て、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭を口に触れさせて、「あなたの咎は取り去られた」と言われる。

そして、イザヤは「だれを、わたしは遣わそう」との声を聞き、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と答え、その後、9-10節の重大なことばを受けたのであった。

二,この民の心を肥え鈍らせ・・・*9-10)

1)「みことばの危機」アモス8:11)

●9-10節のことばは、人間にとって一番怖い「裁き」である。アモス8:11-12にもある次のことばと同じだと言えよう。

「見よ。その時代が来る。―神である主のことば―そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に乾くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。主のことばを探し求めてさまよい歩く。主のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。」

●「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」とのことばは、「聞こえていても聞いていない、見ていても見えていない」という意味であり、同時に、「頑なにされる」という裁きでもある。

心が頑なな理由は、「心が肥えて、鈍くなっている、閉ざされている」ということでもある。10)「耳が遠くなっている、目が閉ざされている」状態。それは、人間の側が、心を肥やし、鈍くなり、閉ざしている、目を閉じ耳も閉じている=聞いていない、である。

●10節Bの「彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように」とある。これが、「みことばの飢饉」であろう。

➡実際は、みことばは語られている。耳で聞くことが出来、目で見ることも出来る。しかし、それが見えないし(=網膜に写っていても脳にまで届いていない)、聞こえない(=聞いていないからことばは脳に届いていない)、それは、人が聞いていないし、見ていない為である。結果は、「立ち返って癒やされることがない」と、なる。

➡それ以上に、「みことばそのものが語られないという飢饉」もあるかも知れない。それは、最も激しい迫害下に起きることかもしれないが、少なくとも21世紀の今ではない。

2)この民の心を肥え太らせ*10):

●民が悟らないために、耳を遠くするために、目を閉ざすために、主は次のことをせよと言われる。それが、「心を肥え鈍らせる」「耳を遠くし」「目を固く閉ざす」ことである。そうすれば、その目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることもなく、結果として、「立ち返って癒やされることもないように」なるのである。*6:10)

➡「心が肥え鈍らせる」:これほど怖いことはない。

●少し具体的に考えてみよう。このような心になるということである。

イ)全てのものは、創造主によって造られたのですよ。➡あほらしい、進化論を知らないのか。全ては「偶然」から出来たにすぎないのだ。

ロ)あなたは「神のかたち=創造主の子」➡猿の子孫、アメーバーから進化した霊長類だ

ハ)キリストの死によって、信じるときに永遠のいのちが➡誰でも死ぬ。永遠に生きられるはずがない、キリストは二千年前に死んだ一人の人間・・・

➡これらの心、ことばは、全てが虚無主義で、「与えられるもの=受ける物は」何もない。全て、自分で受け取りを拒否している。「オレオレ詐欺」に警戒して対応するように、反発するだけで、得るものは何もない。

●しかし、だからこそ、今こそ、伝えなければいけない。聞いて貰えなくても。

三,いつまでですか?*11-13)

1)7百年後?数千年後?

●イザヤは、この厳しすぎる「宣教命令」に驚き、「主よ。いつまでですか」と言うと、次の答えがあった。

「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。」*11)

「主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。」*12)

「そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンの樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(スエ)。」

●11節の「町々も土地も荒れ果てて荒れ地となる」=これは、約700年後のAD70年のエルサレム陥落、捕囚として起る。しかも、それはその後1900年も続くのだから、徹底している。写真は紀元70年頃に起きた対ローマの蜂起によるエルサレム崩壊と、その後三年間のマサダ砦の戦いの現場写真であるが、私は、日本の古戦場跡や世界の戦場跡を(多くは写真で)見たが、そこにリアルさを感じたことはなかったが、イスラエルでは、「まさにここで起きた」という跡を見て、「戦慄」を感じた。何しろ、マサダでは、ローマ軍の陣地の跡まで残っていたし、ローマ兵に落とした石の球が残っていた。又、エルサレムでは、立てこもったユダヤ人が落とした城壁の巨岩は、一辺が5Mを超える巨大なものだった。そして、2000年後の今も、その巨岩がそのまま残されているのである。

写真:上左、マサダのローマ軍の陣地、上右、砦から落とした岩の球

   陣地の上にある川のかたちは、「雨が降ったときだけの川」=普段は砂地の「川」

   下は二枚とも、エルサレムの宮の、二千年前のユダヤ人が落とした巨岩:通り抜けて見ることが出来るようにと、隅に寄せて少しだけ整理してある。道路は窪んだまま。



写真:上左、マサダのローマ軍の陣地、上右、砦から落とした岩の球

   陣地の上にある川のかたちは、「雨が降ったときだけの川」=普段は砂地の「川]

2)主が人を遠くに移し、見捨てる*11-12)

●イザヤは、あまりにも厳しい主のことばを聞き、「主よ。それはいつまでですか。」と聞く。50年、100年と続けばとんでもないことになる。あまりにも厳しい!

➡その答えは、イザヤの予想を遙かに上回る、長期の、そして想像を絶するものだった。

●既に皆さんはご存じだが、イザヤがこれを聞いたときのことを想像してみて欲しい。

① 町々が荒れ果てて住む者がいなくなる。

② 家々にも人がいなくなり、

③ 土地も荒れ果てて荒れ地となる。

④ 主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。以上が第一弾

●NHKの「朝ドラ」に対して、少し視聴率が低いが、3年、4年と続いている「昼ドラ」がABC系列で、昼休みに20分あり、元々は「安らぎの郷」として、テレビ界で活躍した芸能人たちが招待されて入居できる、豪華な老人ホームがあり、高齢になった彼らの今の生き様を面白く描くドラマだが、今年からは物語が二つ並行し、石坂浩二が執筆する「安らぎの刻」という戦前の山梨の貧農の一家の、戦争に巻き込まれる悲惨さを描いてきた。(11月からは、戦前、戦中篇は終了し、平成篇に変わった)

 ドラマの中の10ヶ月ほど続いた戦前の、昭和の軍国主義時代の酷さは大変なもので、長男はシベリヤ抑留で惨い経験をして心を病み、次男は戦死、三男は徴兵拒否で自殺、四男は徴兵逃れで、わざとトラックにひかれて足に重傷を負う。満州開拓団に行った三人の友達も一人が戦士。満州に行った人の多くが一家離散、女性は暴行され、過半数は死亡。

上の①から④を見ると、そのドラマのことが思い浮かぶ。

~紀元70年の(それまでの数年の戦いに負けて)ユダヤ人は全て国から追われ、土地も家も全てを捨てて世界中に離散した。

紀元70年以前にも、イザヤの預言の150年後にバビロン捕囚があり、七〇年間も国を捨てて奴隷として連れ出された。(バビロン中心、中東一帯に離散)

写真は、オスマン・トルコ時代のエルサレム。勿論ユダヤ人は一人もいない。

3)十分の一すら焼き払われ・・・*13)

●13節の「そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。」はどの時代のことを指すかは定かではないが、バビロンから帰還後のAD70年の世界への離散と読める。

●しかし、・・・「切り株」

 ここで、ようやく僅かな希望が示される。それが「切り株」である。

 この切り株こそが「聖なる裔(すえ)」「裔」とは本体に対して続いている物の、一番先(おしまい)の部分。(仏教では、仏法の衰えた時代)=一番先なので、これ以上はない最後。

●キリストこそが、最後の砦、最後の結論、頼り、保証、である。この素晴らしいが、厳しいことばが与えられて、はや2700年!

私たちは、このことばが全て成就していることを見ている!

だからこそ、一層、それを伝えるという使命があることを大事にしたい。

●祈り


礼拝説教原稿―C⑨ 2019.11.3 聖書箇所:ヨハネ20章1-18節 

泉南聖書教会 大寺俊紀

「復活の日の使徒たち」

はじめに:今日は、先週に続いてヨハネ伝からお話しすることに導かれている。先週の「ユダ」のことも同じであるが、人間の心は疑い深いし,自分の世界=思考と感情の範囲内に入りやすい。そして、他人を否定しやすいところがある。先日の英語バイブルでもお話したが、多くの方は、聖書の話は「耳で聞いたことのない」「心に浮かんだこともない」ことで、現実味を持つことが出来ず、自分のこととも思えないのだろう。イエス様の弟子の場合も、「実際に復活した」と報告する人がいても中々信じなかった。

資料:使徒たちの行動と心

●4福音書を列記すると、

四つの福音書の復活後の弟子たちの記述を並べてみて、彼らは実際はどのような様子だったかを検証したい。

➊マタイ:

(1)週の初めの朝:マグダラのマリヤともう一人のマリヤ、墓に行く。地震が起きて主の使いが石を脇に転がしたから

(2)御使い女たちに、復活を告げる。

(3)弟子たちに告げるようにと走って行くとイエスが現れた。(女は足を抱き、拝する)

(4)弟子たちに、「ガリラヤに行くように」伝えなさい。

(5)番兵たちが報告すると、弟子たちに「盗まれたと言え」と言われる。

(6)11人の弟子たちは,ガリラヤに行き,指示された山で再会。

➋マルコ:

(7) マクダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメは油を塗るために香油を買った。

(8) 週の初めの朝、日が昇ったころ、墓に行った。(人数不明)墓につくと入口の石が転がしてあり、中を見ると真っ白い衣をまとった青年が、右側に座っていた。青年は「ナザレ人イエスはよみがえられました。弟子たちとペテロに伝えなさい、主は先にガリラヤに行きます、そこで会われます。」と言われた。

マリヤは、一緒にいた人たちが嘆き悲しんでいるところへ行って,そのことを知らせた。

(9)彼らは,イエスが生きていてマリヤに現れたと、聞いても信じなかった。

(10)その後二人の弟子徒歩で田舎に向かうところに主は,別の姿でご自分を現わされた。

(11)その後イエスは,11人の食卓に現れた。そこで、主は宣教命令を出す。

➌ルカ:

(12) 週の初めの朝早く、彼女たちは香料を持って墓に来た。石が転がされていた。主イエスのからだは見当たらなかった。

(13)まばゆいばかりの衣を着た人が2人、近くに来た。「どうして生きている方を死人の中に探すのですか」と言い、よみがえられたと告げる。

(14)彼女たちは,命じられたことをペテロと仲間たちに報告する。使徒たちは「たわごと」のように思えたので,女たちことばを信じなかった。

(15)ペテロは,走って墓に行った。のぞき込むと、亜麻布だけが見えた。驚いて自分の所に帰った。

(16)弟子の2人がエマオに向かっていて、そこにイエス様ご自身が近づき話す。一緒に旅館(旅籠)に泊まり、食事の時にパンを裂くと2人の目が開かれ主と気付く。主は見えなくなる。2人はすぐに仲間のところに戻る。

(17)皆が話し合っている所にイエス様が現れた。彼らは幽霊だと思えた。「手や足を見なさい」と見せて,肉のあることも見せる。まだ信じられないので,食べ物を求めて,それを食べ、聖書の預言を教えた。「いと高きところから力を着せられるまでは,都にとどまっていなさい」と言われ、その後ベタニヤの近くまで連れて行き,祝福された。その後祝福しながら天に上げられた。

➍ヨハネ:

(18) 週の初めの朝早く:マグダラのマリヤは墓に行った。墓から石が取りのけられていた。走ってペテロとヨハネに知らせた。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか私たちにはわかりません。」

(19)ペテロとヨハネは墓まで走って行った。ヨハネが先についた。亜麻布が置いてあるのが見えたが中に入らなかった。ペテロも来て、墓に入り、亜麻布を見た。ヨハネも中に入り見て信じた。彼らは、まだ復活を教える聖書を理解していなかった。

(20)マリヤは墓の外にたたずみ泣いていた。墓の中を覗くと白い衣を着た2人の御使いが、頭と足の所に座っているのが見えた。彼らはマリヤに言った。「女の方、何故泣いているのですか。」マリヤが後ろを振り向くと、イエスが立っておられた。イエスは、「何故泣いているのか・・・」と聞くと、彼女は園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運びさったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。」と。

(20)イエスが彼女に「マリヤ」と呼ぶと、マリヤは気づいた。イエスは「わたしにすがりついてはいけません。まだ父のもとに上っていないのです。」と言われ、兄弟のところに行き、これを伝えなさいと命じ、マリヤが弟子たちに伝えた。

(21)週の初めの日の夕方、弟子たちがいるところに、(鍵がかけられていたが、)イエスが部屋の真ん中に立たれた。「手と脇腹」を見せられ、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われた。

(22)トマスはイエスが来られたときにそこにいなかったので、他の者が「私たちは主を見た」と言うと、「私は、脇腹の傷の跡を見ないと信じない」と言った。

(23)八日後、再び集まっている弟子の真ん中に立ち、トマスに、あなたの指を当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と言われ、信じるように教えた。

(24)その後、イエスはティベリヤの湖畔で再び弟子たちに自分を現わされた。(三度目)

一,墓に行ったのは女性

1)報告を聞いて駆けつけたのも2人だけ=上資料のまとめ

●福音書によってはそれぞれ焦点の当て方に違いがあるが、全体を見て、おおよその流れを見ておけば良い。マリヤに現れ、2人が墓まで行き、その後皆に知らせても誰も信じていなかった。しかし、主ご自身が三度使徒たちの前に立たれ、確認させて、彼らは信じた。使徒の前で、主は天に昇られれた。その後、父から力(聖霊)を受けて、以後一切疑うことなく、教会・宣教が始まった。

●若干の食い違いがあるのは、視点の違い、情報の断片的な描写のせいと思える。四つを短く整理すると次のようになる。(4福音書は互いに補い合っている)

① 2人のマリヤが早朝に墓地に行く。地震があって、入口の墓石は取り除かれていた。

② 御使いがいて、復活されたことを教え、マリヤに、弟子たちに伝えなさいと言う。

③ マリヤに復活の主が声をかけられる。

④ マリヤの報告を聞き、ペテロとヨハネが走って行き、衣類だけを見る。彼らは家に帰る。

  2人の弟子はエマオの故郷に帰ろうとする。主が現れて教えられる。2人はエルサレムに戻る。

  •  その後(翌日?)弟子10人(トマスを除く)のいる部屋に主が突如姿現わす。食べ物を求め食べられ、霊ではないことを教える。~使徒たちは信じる。不在だったトマスは不信のことばを出す。
  • 八日後に再度使途に現れ、トマスに声をかけられる。「手と脇腹に手を入れなさい」と。
  • ベタニヤの近くかティベリヤの湖畔で、三度目として弟子たちに自分を現わされた。祝福しながら天に上がられた。
  • パウロのことばでは、約40日の間に約500人の兄弟ののもとにも姿を示された。

2)使徒たちの対応、反応

イ)墓に行ったのは女性・2人のマリヤだけで、その話を聞いて墓に確認に行ったのはペテロとヨハネの2人だけ。

ロ)その2人も、他の9人に説得しようとしなかった。まだ確信がなかったと思える。

ハ)他の9人は空の墓地に行かなかった。

ニ)更に、9人のうちの2人はマリヤの報告を聞いていながら故郷に帰ろうとした。

ホ)墓地にまで来たマリヤには、主が直接声をかけて下さった。一番最初に信じる。

ヘ)使徒10人が集まっているところに現れて下さり、復活の姿を見せて下さり、彼らは信じた。但し、そこにいなかったトマスだけは不信のことばを出す。八日後にはトマスも信じる。

ト)「父から力を着せられる」日=「聖霊降誕」によって、以後一切の不信は消え、誰一人不信仰に戻っていない。➡教会誕生、宣教へ

二,信仰での男女の違い?

1)求道心と想像力不足の男性。男性は事実:論理性重視?女性は情緒性重視?

●上の使徒たちの行動を見ると、男性は女性よりも「想像力」が劣っているのではないかと言えよう。(具体性がないと信じにくい?)墓地に行って、遺体のない抜け殻の衣を見ながら、他の使徒に伝えなかったペテロとヨハネの二人も、まだ復活を確信できていなかったから他の使徒に話そうとしなかった。 

●但し、トマスの例にもあるように、また、使徒全員が男性で、その後具体的に理解できると、完全に納得して確信を持ち、二度と戻らずに信仰を貫き通し、教会を立ち上げ、世界に広げ、宣教できたのは男性の長所と言えよう。

●一般的に言って、(逆の場合も数十%あるが)男女差を見ると、教会に先に来会し、信仰を持つのは女性が早いと言えよう。男姓の場合は、「仕事があるから」として、「宗教活動は妻に任せる」という姿勢を取りやすい。近所付き合い、親戚付き合いのような認識と思える。

●但し、女性が常に信仰的とは限らず、逆の例も数十%ある。夫が教会に行きたいが、妻が嫌う。だから、「夫婦揃って来なくなる」ということもかなり見てきた。

●女性が、男性よりも先に教会に来て、信仰を持ちやすい傾向が強いのは、女性の方が「情緒的」な事を重視し、精神的な課題の解決を望むという傾向が男性よりも強いのかも知れない。それは、人間関係での悩みから出やすい。男性にも人間関係の問題はあるが、「男性同士は比較的にドライに処理する傾向」がある。又、「仕事で精一杯で、人間関係の問題は、職場以外は避けたいと逃げる」。「仕事を引退するまでは、仕事一本で行く」との傾向を持ちやすいから、「宗教の問題は入りたくない」と避けようとするのかも知れない。これは「善し悪しの問題」ではない。

2)罪から来る「決めつけ」も。聖霊に満たされなければ「何でもあり」に

●先週取り上げたユダのことや、罪の具体例をもう一度思い出してみよう。

① ユダの場合:彼は始めから、「預かったお金を盗む」などの罪の素地があり、「サタンが入って」主イエスをユダヤ教の祭司たちに売った。

② 「祈り会のあとの飲み屋行き」「教会のキャンプでの宴会」・・・それらが出来るのは、指導を受けた牧師に反発し、転会して、「同じ傾向のある者」たちで繰り返している。

  教会や牧師を良く言うことはなく、「悪く言う」ことは多くなる。罪に流され、負けている。悔い改めがなく、聖霊に満たされることがないと危険。

③ 私も、洗礼前に教会を二度変わったが、「牧師批判、悪口」は決してしない。それはキリストに変わって「裁く」ことになるから。

  少し説明すると、1番目の教会は「ペンテコステ系」教会で、その経験をする為に、イエス様が行かせた、と思っている。そちらの牧師は、「会社の人事課長として、会社の仕事で」牧師をされていた。だから、礼拝以外のことは一切無理だった。(会社・工場の従業員と親族だけの教会で、戦前からあったが、私が初の外来者)

  2番目の教会は、アメリカの田舎の神学校で学んだとのことだが、聖書批評説など学んでなかった。「根本主義・分離主義・ディスペンセーション理論」の教会を経験する為に、イエス様が行かせたと思っている。それ以上のことは、すべて主に委ねている。「罪があれば主が正しく裁かれる」と。

  2番目の教会におられたアメリカ人宣教師は終末理論の違いを語っていた。そこで、私は、主に導かれて「福音主義」に導かれた。それも、創造を否定しないものに。

④ 私が実践してきた「誰も裁かない=主に委ねる」ことは、罪に巻き込まれて自分も罪を犯すことがない為。「この牧師は駄目だ」「この信徒は駄目だ」などとの思いを持つのは最も危険。サタンが入るから。

この事を皆さんも学んで、「絶対に人を裁かない」と遵守を、救いをなくさないために

3)使徒の変貌:聖霊と確信

●ご存じの通り、聖霊降誕の日からの記述を見て、使徒たちのひとりとして信仰を失い、罪に戻った者はいない。しかし、その後の二千年の教会の中で「罪」があり、それも、「「何でもあり」の状態になっているのは、「聖霊に満たされ、従う」と言うことが出来ていない人や、サタンに支配されやすい人に起きることである。

 例)牧師を否定する、辞任に追い込もうとする、或いは精神病になる牧師、自殺した牧師もいる。信徒が教会を自分の支配下に置こうとする。派閥を作る・・・牧師批判を続ける。

教会でなく、「キリスト教系の団体」にも多い。主導権争いなど。

➡しかし、創始者で約20年続けて会長だった牧師、医師(院長も)の宇佐美正海牧師(親子)は、追い出されたその団体に、自分の多数の著書やビデオ(DVD)などの版権をそのまま残し、会員多数も、そのまま残って貰い、ささやかに親子で再び新しい組織を作っておられる。(引き抜きしない)

先日、その小さい団体(ジェネシス・ジャパン)の研修会が信州の白馬であり、ギターの池田兄が分科会の講師として参加したニュースを見て、メールをすると、池田兄には、来年の研修キャンプでは、「絵の分科会」で大寺先生も講師で来て下さい」と呼びかけられたが、宇佐美牧師の信仰の大きさと素晴らしさを褒め称えたい。

*下の写真はジェネシスジャパンの白馬研修キャンプ(約50人)前列中央が宇佐美師、最後列の右端が池田さん、(白い服の男性の後ろ)

●先週も話したとおりの私の決意・姿勢を是非、皆さんにも実行して欲しい。「誰かの罪を全て主にゆだねる」「裁く、批判をする、抗争する」は決してしない。自分が誰か(牧師など)を馬鹿にし、裁くなどは最も愚かな罪。

足らないと思うことがあれば、自分がそれを補い助けるなどで仕えることが大事。良き主のしもべとなる、何かが出来てもー当然のことをしたまでですーと、誇らない。このようなクリスチャンであって欲しい。「自分を誇る気持」が出ると、他人に怒る、裁く、誇るなどの態度を取るようになる。

●本当に、心の底から、「自分は罪人」である、「不完全な小さい者」だとへりくだり、イエス様の赦しを信じ切れば、「必ず聖霊が送られ、今後導かれる」これが真の出発点!である。

三,主イエスが示された「愛」

1)17章の最後=逮捕の直前に:

●先週の13章では、後半のユダを取り上げて話をしたが、前半では「弟子たちの足を洗う」という事をなされて、「あなた方も、このように、お互いに足を洗うように、仕えなさい。愛し合いなさい」と教えられた。

●ユダが出て行った後、逮捕する者が到着するまで、イエス様は弟子たちに語られたが、その最後は素晴らしい約束だった。

*17:1-2)「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。』」

●17:5節では「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現わしてください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

●更に、24節Bでも、「世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしにくださった栄光を。」と続く。

●父と子の栄光とは、全宇宙を創造され、その中心にいて示されている創造者、全能者としての栄光であるが、それは「世界が始める前から」「世界の基が据えられる前から」のものである。つまり、永遠の昔からおられて、今のこの地球と宇宙を創造される前、始める前から共におられた父なる神と子なるキリストの栄光である。

➡その栄光を現わす:それは、「復活」によって、人類に「死を滅ぼす方である」とのお力を示されるということである。

➡その栄光の力によって:我々被造物にも同じ復活のいのちが与えられること、即ち私たちの死も滅ぼされる。それが信じる者へ与えられる「永遠のいのち」となり、父とキリストの「私たちへの愛」である。

➡この愛は、果物を取って与えるような簡単なものではない。イエス様の「十字架の死」という苦しみを通って与えられる貴重な、愛のプレゼントである。        ●祈り


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泉南聖書教会

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