Phone: 072-483-0590

⑥6月30日(日)礼拝:聖書入門シリーズー①

礼拝説教原稿―B⑨2019.6.30聖書箇所:ヨハネ3章16節 泉南聖書教会 大寺俊紀「救いとは何か?」

―やさしい聖書入門説教シリーズ:1:1―

はじめに:先日、ある男性と話していましたら、その方は仏教のある有名な教えを話されました。「悪人でも救われる。ましてや善人は救われる・・・」と。さらに、「ある方は、全ての人は救われるとも言われている」、と話されました。そして、「聖書の教えはずいぶん世界観が違う」と感想を延べられました。聖書は・キリスト教の場合は、世界観でなく,真理を教えていると私は思います。一回目は、この救いの問題から始めましょう。 

一、信仰がなくては救われません

―「怖れ、敬うこと=畏敬の念」が必要―

●「全ての人は救われている」との解釈も、「キリストの十字架は、全ての人を赦している」とのことば=解釈も不正確です。聖書から言えば、「全ての人が赦されるために、キリストが十字架にかかって下さった」ということです。~十字架のことは後で説明します~

●大事なことは、「世界観」ではありません。「正しい信仰」です。その信仰が正しいかどうかは、世界観によって人が決めることではありません。「真理」というものは、「世界観」によって色々あるのではなく、必ず真理は一つのはずです。それは、人間が決めるものでなく、全能の主=創造主が与えて下さっているものかどうか、です。だから、与えられた教え=経典が真理と言えるかどうかが大事です。

●まず、私たち人類は、もっとへりくだらなければなりません。聖書はこう言っています。*ローマ書3章23「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」

➡つまり、全人類は罪を犯していると言われています。だから、キリストによる救いに気がつかなければ、義(完全に正しい)とされません。それは、罪人とされて裁きを受けると言うことです。でも、殆どの人はこのことの理由を知りません。

●最大の罪は何でしょうか?それは、自分が被造物であることを否定していること、創造者を敬わないことです。地球も、太陽や月も、動物植物、水や空気、これら全てが人類のために造られていることを感謝していないことです。➡*ローマ書1章2125

21)「神(創造主)の目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」

25)「彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」

➡私たちは、古代から山を拝み、先祖を拝み、動物や木や水、太陽などの被造物に手を合わせ拝んできました。これは創造主の大きな怒りを受ける「偶像礼拝」だったのです。

●古代人だけではありません。19世紀以後の近代人は、~特に進化論の影響によって~創造主を否定し、「人は猿から進化した、元はアメーバーから、元素から進化した」との説に従っています。これは大いなる主の怒り(裁き)を受ける罪です。

二、過去に裁きがあった―もう一度裁きがあると言うこと―

―今、目に見えるものだけを基準にするのは愚かです!―

●聖書を知らない人の殆どが間違っているのは、皆さんが「今、目にしていることだけを基準・前提にしている」ことです。聖書を知らない人の前提と、聖書の原則を比べましょう。

1)聖書を知らない人の前提

1,人(万物)は死ぬものである。(死は諦めるしかない。解決はない)

2,万物の存在の原因はわからない=偶然

3,今の世界、死があり、戦争があり、罪に溢れている。災害、大地震・天災もある。

~なんとか生き延びるしかない~医学、科学の発達による改善を望む。

2)聖書の原則、前提

  • 創造主は、人も動物も死のないものとして造られた
  • 最初の人が創造主から逃げて従わなかった。罪を犯した➡死が入った(第一の裁き)
  • 第二の裁き=ノアの洪水:今の世界になった
  • 死がなくなる。死者は復活する。災害などもなくなる。戦争、軍隊もなくす。

➡その為のキリスト再臨がある。

  • 最後の審判がある。信じ従わない者に第三の永遠の裁きがある!(審判迄、信じないで死んだ者にも、よみに落とされる裁きがある)

第一の裁き:創世記3章:

①創世記1,2章の創造では「死」ということばはありません。人も動物も、食べ物は野菜、果実(動物の肉食もなかった)~これこそ、創造主の愛、御こころ。

②一つだけ戒めがあり、「自分で善悪を判断してはいけない=主に従いなさい」と言われ、従わなければ「死ぬ」と警告されました。創世記2章17節

*創世記2:17「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

③悪魔の誘惑を受けてそれに従う。(元天使長の一人ルシファー。天使も自由が与えられていて、罪を犯して追放されていた。主は、人が誘惑されることを知っていた。)

④罪を犯したアダムとイヴは、謝罪もせずに裁きを受けた。「死ぬようになった」との宣言

⑤その後約千年経過、「死が入ったとはいえ、地球は素晴らしく、全てが長寿」でした。  ~化石を見ると、全てが巨大でした。1Mの貝(アンモナイト)、恐竜(40~50M)、1Mのトンボ

、巨人の化石もあります。

~創世記5章では人の寿命は700-900年と長寿だった!(創世記5章)

➡これらの「証拠」が,ノアの洪水の前の地球の状態、環境の素晴らしさを示しています。

●第二の裁き=今見る地球になった。

●創世記6章3節「人の寿命は120年としよう」と言われています。

~もし、聖書が嘘を書いているのなら、120才を知っているのだから、5章の長寿は書かないはずです。(せいぜい130-150才)

*創世記6章3節「そこで、主は、「わたしの霊は,永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は,百二十年にしよう」と仰せられた。」

今の地球にはノアの洪水の証拠が溢れている!=地球全土が一度埋没した!

 世界的な地層=堆積層(地球全土の3分の2,残り3分の1は火成岩)

●造山運動:①深い海に土砂がたまって、重力に反発して盛り上がる。(水成岩)

②マグマの盛り上がり=火成岩

エヴェレストやアルプスは洪水前のやや深い海に土砂がたまり,その後隆起しました。

*詩編103:6+8「あなたは,深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。」「山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。」




 ↑写真:1グランドキャニオン、3、アルプス

南北アメリカ大陸=ユーラシア大陸からの離脱、移動したもの=洪水前は大陸は一つ

 前出の通りの巨大化石など(貝、恐竜、トンボ、巨人)

 今の世界の全ての人種は、ノアの家族8人から出ています。

 現存する古い樹木は、六千年以下=洪水は訳4500年前との推測。

 現存する人類の足跡,記録も,6千年前のものはありません。

➡進化論では,今の人類の文化的記録は「有史以来」と呼び、約6千年と認め、それ以前は人類に進化する前との推測をしますが・・約6千年は、人類史の聖書の記述と一致します。

●洪水へ最大の疑問:「水はどこから来たか?」➡地球内部の「大いなる水」ではないか?

 以前は,地球の周囲、上空に水の半分が上げられていたとの推測がありましたが,今は否定されています。大西洋と太平洋の海底に無数の海底火山があり、それが地球内部の水を噴出させたと推測されています。また、このことにより、一つだった地球の大陸が,いくつかに分かれたと推測できます。特に南北アメリカ。

下左は,地球の海底の観測図。は泉南市山間部に多数ある堆積層、タマネギ岩

●洪水のとき、地球内部の水が噴き出し,天からの雨も降った。

*創世記7:11「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け天の水門が開かれた。」「水は、いよいよ地の上に増し加わり,天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。」19)

●右写真は泉南市山間部に多数ある堆積層、タマネギ岩ですが、まず「地層」そのものの形成が洪水によるものと断定できます。30-50㎝の地層は粘土層、砂岩層、礫岩層、泥岩層などですが、進化論によれば「地層は数千年、数億年を示す」と言います。しかし、数千年,或いは数億年、粘土層だけ、砂岩層だけが出来ることは不可能です。反対に洪水の場合は,全ての土砂がかき混ぜられ,堆積するときには「比重の違いによって」別々の地層になります。(簡単に実験できます)又、右写真の泥岩層(濃いねずみ色)には渦巻きが石になっています。(タマネギ岩)それは、泥が流れてきて,数時間(10分ほど)で堆積した証拠です。動力もなしで石が数千年間も回転することはあり得ません。

●第三の「裁き」第一の裁きの結果=不信仰者の黄泉下り

●これは、正式には第三ではなく、第一の裁きの結果です。

➡それは、死者は次のどちらかに行き先が定められたと言うことです。

  • よみの「慰めの場所」:聖書に書かれている信仰者と慰めを受けた者。(アブラハムを先頭に、信仰の父祖たちも)行きました。二人だけ例外➡エノクとエリヤ

 *ルカ16:19-31:ホームレスのラザロは憐れみを受けて慰めの場所に行っています。         

  • 不信仰で、贅沢に暮らした金持ちは,苦しみの場所に行き、「炎の中」で苦しんでいます。~この状態が数百年、数千年続き、最後の審判を待たねばなりません。地上で、どんなに成功しても,不信仰では慰めの場所に行けませんでした。
  • キリストが来られるまでは(旧約時代)1,2のいずれかであり、3の天国に上げられたのは二人だけと書かれています。

エノク:創世記5:24「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」 

*エリヤ:Ⅱ列王記2:11「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは,たつまきに乗って天へ上って行った。」

旧約時代に天に上ることが赦されたのはこのふたりでだけで、信仰の父アブラハムですら黄泉にいました。そこには一切の活動がなく,ただ、静かに待つところ。

➡しかし、キリストは天への「凱旋の行進」で、黄泉の慰めの場所にいる者は全て天に上げられました。

 ●更に、新約時代は、クリスチャンや憐れみを受けた者は全て天に上げられています。

●第四の「裁き」 (普通は三です) =「最後の審判」

●最後の審判は後ほど説明しますが、聖書とキリストの救いを信じた信仰者は,裁かれることがありません。永遠のいのちを受けています。

三、だから、救いとは・・・

●「救い」とは普通の人は,「病気、老い」「貧困」「人間関係」「精神的な苦痛」「障害」などからのもの

しかし、「聖書の救いとは」上の三つの(或いは四つの)裁きからの解放

  • 非常に幸運な人、強い人、賢い人は,上記の「苦難」とは無縁ということもあるかも知れない。しかし、「死」を避けることは誰にも出来ません!根本的な解決はありません。(不信仰では裁きを受けます)
  • 人間的な宗教や哲学では、「良いところ」「極楽浄土」などに行けるはずだと教えます。不遇な人、戦争・迫害などに翻弄されれば殆ど平安はなく,希望もなく,救いがありません。
  • 聖書の教える救いは,「創造主」からの救い。永遠に生きておられる方の「いのち」

*ヨハネ3.16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに,世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」➡その中身は三つの裁きからの赦し: 

  • 一つ目の裁き=罪による死(原罪)の赦し。=死がなくなる=いのちを受ける

    今は目に見えない(約束だけに見える),はっきりと示され、与えられる。

➡キリスト再臨のときに永遠の体も受けます。

*1テサロニケ:416-17「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちがたちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ,空中で主と会うのです。このようにして,私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

  • 二つ目の裁きからの赦し=地球の再創造の約束(洪水前の地球の回復)

  救われている者はその地球に入れられる(信仰者は天地を上下できる)

➡キリスト再臨後に与えられる「復活のからだ」は御使いのように天地を上下できる。

➡完全な平和の回復、戦争がなくなる

*イザヤ2:4「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず,二度と戦いのことを習わない。」全く同じ約束がミカ4:3にもある。●被造物も肉食をやめる。=動物の死もなくなる。*イザヤ11:6-7)

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子ヤギとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて,小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し,獅子も牛のようにわらを食う。・・・」

  • 「三つ目」の裁きからの赦し=黄泉下りからの解放

●通常は、これは裁きとは言わず,三つ目は「最後の審判」とするが、今回、特別に「三つ目」とカウントする。~救われた者はすぐに天に上げられるが、不信仰者は黄泉に下る。

「苦しみの場所」又は「慰めの場所」で最後の審判を待たねばならない。

キリスト初臨後の現在は、信仰者は黄泉にくだらない。(すぐに天に上げられて待つ)

  • 「四つ目」の裁きの赦し=「最後の審判」からの救い=永遠のいのち(不死)

*Ⅰヨハネ513「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」=(1-4.全て)裁かれません!

●祈り

⑤6月23日(日)礼拝

礼拝説教原稿―B⑧2019.6.23聖書箇所:コロサイ4章1-4節 

泉南聖書教会 大寺俊紀「親切で、塩味のきいたことば」

はじめに:今日は、コロサイ4章1-6節のパウロのことばで、私たちが、周囲の人たちに対して、キリストの救いをお伝えしていく証しの人生の中で、最も大事なことを教えて下さっている。主を礼拝し、従い、隣人を愛するということと共に、「あかしし、伝えていく」という使命の中での「ことば」の大切さであるが、ことばは心から出るものなので、どのような心を持つことが大事かがわかる。

一、コロサイ書の概要

1)御子にある贖い=罪の赦し*1章)

●私たち、御子=イエスキリストを信じるものが救われている=罪の赦しを受けているのは、キリストが次のような方だからである。

*1:15-17)「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。15」

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。16)

 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」17)

●次に、キリストは、「死者の中から最初に生まれた方である」と、復活の方だと教える。

そのキリストの死とは、「十字架の死」であり、他のものとは違い、我々人類の罪を赦すための「贖い」の死であり、「万物を、ご自身の十字架の血によって平和をつくり、和解させるためのものであった。*20」

2)だましごとの哲学に注意を*2章)

●著者パウロは、コロサイの教会の人たちが「だましごとの哲学」を持って信仰を破壊しようとしてやってくる者たちに気を付けるようにと教えている。

●彼らは、ユダヤ教の「律法」を守らなければいけないと教え、特に「割礼」を押しつけてくる。又、「食べ物と飲み物の律法」、「祭りや新月、安息日遵守」、「ことさらに自己卑下をすること」「御使い礼拝」「幻を見たことを誇る」など全て肉の思いによって自分を誇っている者であり、キリストに固く結びつくことをしない。

●それらは人の戒めと教えであり、好き勝手な礼拝、いたずらな謙遜、肉体の苦行などで賢い者に見えるが、欲望に対しては何の効き目もない。*22-23)

3)キリストを信じた者の「いのち」とは?*3章)

●3章では、パウロは次のように励ましている。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこには、キリストが、神の右に座を占めておられます。」1)

そして、次のように言われる。

➡「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」2)

➡「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」3)

●「神のうちに隠されているいのち」➡これは、キリストの再臨によってあらわになる!

*4)「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」

~復活のキリストが再臨されれば、私たちも、同じ体を受けて、栄光のうちに現れる~

こんな素晴らしい約束をすでに受けているのだから、地上のむさぼりを殺し、天にあるものを思うことが大事である。

 古い人を脱ぎ捨てること、すでに新しい人を着ている!新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る!

●また、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者としての「同情心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」などを教え、これらすべての上に「愛を着けなさい」と命じられている。

~夫、妻、親子、奴隷(使用人)との関係なども教えている~

二、目をさまして、感謝を持って*4章)

1)たゆみなく祈りなさい*2)

●今日は4章1-6節が聖書箇所であり、「目をさまして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい」とのことばが一つの主題である。

唄野隆師による「今日の聖書」では、この4章について、次のように書かれている。

「・・・自分たちのための内向きの祈りだけでなく、積極的に、福音が広められ教会が建てあげられるための祈りを求めたのです。そこから、彼らの生き方について、自分自身のことではなく外の人にどう関わるかに重点を置いた勧めを語り続けました。」(P.187)

●2節の「目をさまして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。」の理由は、一言で言えば、私たちが受けた、キリストにある恵みの素晴らしさにある。

「天にあるものを思いなさい」も、キリストの愛を受けて、復活のいのち=永遠の命を既に受けていること=約束を受けている者だからこそ感謝を持って、たゆみなく祈ることができるのである。

「たゆみなく祈る」と、「たえず祈る」は同義語かも知れないが、「たゆみなく」には、常に祈りの中にいる、途切れることなく、祈りが頭の中を占めているという状況に思える。

 例えば、私は、月曜日には少し礼拝説教から離れる週もあるが、それでも、完全に忘れていると言うことはない。机に向かっていなくても、聖書箇所とタイトルが頭にあって、ずっと考えている。週報などを作っているときも、やはり朝の祈りの続きが頭の中にあり、教会や一人一人の課題や次の礼拝説教の構成や、関連する様々なことが頭をよぎり、ずっと考え、祈り続けていることとなっている。

●そうする理由は、パウロが書いてくれたとおり、受けている救い、恵みの大きさを思う故である。この根本的な動機が希薄であると、出来るだけ簡単に、要領よく済ませようとするだろうし、デスクに向かうときだけ祈り、考えるという、通常のビジネス作業と同じになってしまう。だから、このパウロのことばは、救いの素晴らしさを知っていなければ、到底受

け入れられない。だから、これらのパウロのことばは、一般の未信者には理解できるものでなく、まず、キリストの救いの素晴らしさを知って戴くことから始まるのであるが、そのためには、私たちの日頃の言葉や行動が大切となって来る。

 仮に、私たちの言葉や行動が愚かなもの、教会内や他人とのトラブルが絶えないものであったりすれば逆効果になることは間違いない。だから、次のことばが重要となって来る。

2)「外部の人たちに対して賢明にふるまい」*5)

●パウロは「外部の人たちに対して」の振る舞い=行動に注意するようにと書いているが、家族や教会内部の人への行動は、ここでは触れていないが当然のこととしている。

仮に、教会内で派閥抗争があるとか、教会指導者、牧師などに対抗して集まるなどがあれば、それは一般社会と同じであり、反社会勢力とも同じになる。これらは、「言わずもがな」ということである。

●「賢明にふるまい」は、実際にあらゆるケースがあり、一概に例を挙げることは出来ないが、私たちは、常に祈り、接していく、行動していくことが大事である。自分本位の行動であれば色々誤解や対立が生じる。同時に、主に委ねていくことも大事である。

 先週の渡辺姉の証しでも、ご病気を持っているお嬢さんを支える中で、祈りを通して癒しを受けることが出来た。又、今後の進路のことを考えたとき、娘さんの側にいてあげたいとの理由で、職場を変わって西宮に移られたそうであるが、その際、職場に迷惑をかけてでも強引に行動していれば、非難を受けていただろうが、「ケアマネの応募者は、普通は一年に一人あれば良い程度」だというのに、相談して間もなく、「まだ募集もかけていないのに3人の後任のケアマネの応募があって」、無事に退職出来て、迷惑をかけなかったと聞いたが、このような「主の摂理=備え」があれば、迷惑どころか、「素晴らしい証し」となる。おそらく前の職場の人は、渡辺姉妹には「神様が付いている」との衝撃を受けたに違いない。

3)ことばの大切さ*6)

●聖書は、至る所でことばの大切さを教えている。そもそも、信仰も、心の中にしまっておくことではなく、はっきりと告白することから始まる。

*ローマ:10:9-10「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

●ことばが重要なのは、心にあることがことばになるからであり、同時に顔の表情や態度にも出て来るからである。そして人という者はことばを制御することは至難のわざであると教えている。

●ヤコブ3:2-6「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。・・・舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。・・・」

三、いつも親切で塩味のきいたことば*4:6)

1)塩味が苦くなっては・・・

●今日の最後にあることばは「塩味のきいたことば」であるが、これは、気を付かないと危ない。と言うのは、それは「皮肉、嫌み」になりやすいからである。更に、それは、一番陥りやすい、犯しやすい失敗である。

 ここを見ると、ほぼ100%人は「塩味のきいた」だけを覚えて、何か言おうとするに違いない。でも、それはほとんどが「皮肉や嫌み」になってしまう。又、このことは、毎回言えるものではなく、言われっぱなしにならないように、出来れば少しだけ「重要なことだけを押さえておく」という気持が大事ではないか。

●例えば、二週間に初来会された男性であるが、彼は、「今まで浄土真宗の教えを学んできた」と言われ、そのことで少し話が進むと、「悪人でも救われるのだから、善人は当然救われる」との親鸞の教え=これは、しばしば親鸞の本の宣伝で使われることば=があるからと言われていた。

●それは、「無条件の救い」となる。しかも、話の中で、「どんな人でも全部救われる、救われている」とも言われていると話されていた。しかし、そうだとすると、戦争であれ、犯罪であれ、世界に満ちているこの悪はどうなるのか、すでに私たちに死があり、地上に災害がある答えにはならない。裁きはないのかという疑問になり、聖書はそれに答えている。無条件でなく、悔い改めと信仰が必要であると。

●しかし、あのとき、私は、ひと言最後に「塩味のきいた」ことばを発しても意味はないと思った。だから、最後にこういうひと言を話そうとは考えず、反対に、ゆっくり考えて欲しいと思い、来週からの「やさしい入門説教礼拝」をすることとした。

2)「いつも親切で」に注目

●一人一人、状況が違う。だから、仮に家族など、いつも話せる人の場合で、もしも、その人が不信仰なことばを出されるなら、「イエス様は、私たちのことばを全部聞いておられるよ」などのことばを柔らかく発することが出来ると、それが、次第に心を柔らかくする「糧」となることを期待したい。

●しかし、その前には、「いつも親切で」ということばが言われていることを覚えておきたい。このことを忘れると相手が、押しつけがましいとか、皮肉ばかり言われるなどとなってしまうからである。

3)誰のことばか?

●最後に、話す際、いつも念頭に置いていないといけないことは、「これは私の個人的な意見ではない」と言うことである。先ほど話した方は、礼拝説教を聞いて、「ずいぶん違う世界観を持っているのですね」と言われたが、聖書のことば、礼拝の中の牧師のことばは、クリスチャンとしての世界観によるものではなく、永遠に生きておられる創造主が人類に与えて下さったことばであるから、その前提の違いがあると、「世界観が変わっているな」と受け取られて終わってしまう。これは、じっくり聞いて戴かないと理解して貰えないと思うが、聖書の成り立ちとその構成など、理解していただくことが大事であり、塩味のきいたひと言では終わらない。

そういうことから、今回のシリーズの二回目には聖書の成り立ちをわかりやすく話し、来会されなかった方にもコピーして配布したいと思う。

●だから、パウロも、4:6の「塩味のきいたことば」の前に、キリストが創造者であること、目に見えない神(創造者)のかたちであることなどを語っておられるのである。

●祈り

④6月9日(日)礼拝

礼拝説教原稿―B⑦2019.6.9聖書箇所:ヨナ2章1-12節 泉南聖書教会 大寺俊紀

「神から逃げる人」

はじめに:今月は、旧約聖書もいよいよ終わりに近づき、あと50ページほどになった。

ヨナ記はわずか4章の短いものだが、非常に印象的な、面白い短編小説、「神話」や「おとぎはなし」のような内容であるが、これも、クリスチャンの考古学者たちが熱心に調査をして、その真実性を示している。ということは、このヨナ記の中の不思議なエピソードも、先日のダニエル書の中の燃える炎の釜や獅子の洞穴からの救出と同じ、創造主なる神の奇跡の一つと言えよう。

●そもそも、「神から逃げる人」というと、一般的には、日本人の場合は数え切れないほどの人々が、「その呼びかけから逃げている」と言えよう。少し範囲を狭めても、私たちが、ここ10年、或いは20年呼びかけている人々、身近な人や地域の人々(トラクトも、年に二回は計5000枚配布して呼びかけている)だけでも、「神からの呼びかけをトラクトに託しているが、ポスティングを見て初来会されたのは、クリスマスに2人、復活祭に一人だけ。その方々も、コンサート以後には来会されていない。家族、親兄弟なども、殆どそうであるが、今日は、少し範囲を絞って、「もっとはっきりと主の声、使命を聞いても尚、逃げる人」という範囲にして考えたい。

一、主の御顔を避けたヨナ

1)1―4章のダイジョスト

●最初に、ヨナ記全体のストーリーを簡単にまとめておきたい。

1章)①アミタイの子ヨナに主のことばがあった。「(アッシリヤの首都)ニネベの町に行き、叫べ=悔い改めを求めよ」

②しかし、ヨナは、主の御顔を避けてタルシシュ(スペイン)へ逃れようとした。

③主は大風を海に吹きつけられ、船は難破しそうになる。

④みなは「くじを引いて、誰のせいでこのわざわいが降りかかったかを知ろう」とし、くじを引くとヨナに当たる。

⑤船に乗り合わせた皆に問われ、ヨナは告白する。彼らは「あなたをどうしたらいいのか」と聞くと、ヨナは「わたしを海に投げこみなさい」と答える。

⑥海はますます荒れるので、彼らは、やむなくヨナを海に投げ込むと海は静かになる。

⑦主は、大きな魚を備えて、ヨナをのみこませる。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。

2章)ヨナは魚の中から祈る。「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。」7)・・・「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」10)

3章)再びニネベに行けとの主のことばがある。

⑧彼はニネベの町に入り、「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫んだ。4)

⑨ニネベの人々は、神を信じ、断食を呼びかけ、皆が荒布を着た。

  • ニネベの王の耳に入ると、王は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座った。
  • 王と大臣の命令によって布告が出された。「人も家畜たちも、みな断食せよ」。そして、「おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ」と。7-8)
  •  神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になり、下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。10)

4章)

  • 神が「彼らに下すと言っていた裁きを思い直された」ことはヨナを非常に不愉快にさせた。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。」と。
  • ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようとした。5)
  • 主は、一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、頭の上の陰として、不機嫌を直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。6)
  • 神は、翌日の朝、一匹の虫を備えられ、虫がとうごまを噛み、とうごまは枯れた。7)
  • 太陽が上り、神は焼け付くような東風を備えられた。彼は衰え果て、自分の死を願った。「生きているより死んだ方がましだ」8)
  • 最後に主のことばがある。10-11)「あなたは、自分で育てもしなかったごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまずにおられない。そこには、右も左もわきまえない十二万人以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

二、ヨナ記の奇跡-1

1)ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた:

●聖書を信じ、礼拝し、教えているキリスト教会でも、いくつかのスタンスの違いがある。特に旧約聖書への違いが大きい。

19世紀以降、聖書に疑問を持つ教会が増えてきた。教会でありながら聖書に疑問を持ち、人間的に解釈することが始まった。これを、「聖書批評説」と呼び、聖書を色々勝手に解釈する。最も激しいのは、「聖書は神=創造主が書いたものではない」「そもそも創造主はいない=進化論が正しい」となる。そこで、創世記や旧約のダニエル書、このヨナ記も批判の対象とされる。

 ダニエル書は「獅子の穴」「炎の燃える炉」のエピソードがあるから、全ての記述、預言は嘘となり、書かれた年代は400~500年後であると言う。

 私が思うのに、聖書が正しいと思えないのなら、クリスチャンをやめ、教会を辞め、牧師や神学者をやめて、他の道に進めば良い。しかし、そうはならない。

 ではどうするか?「聖書は神が書いたものではない」との「神学」を作り、それを広めようとする。キリスト教、聖書を批判、攻撃することが生涯の仕事となる。神学校でその教派の教えを広め、その教えの教会を増やす。そして、国中の(世界中の)教会がそれに従うことを喜びとする。この様な傾向の教派を「聖書批評説神学」「自由主義神学、リベラル派」の教会と呼ぶ。(リベラルの意味はあいまい)

②上の教派を最左派というのなら、少し左派、中道左派的な、やや保守的な神学の教派では、「自分たちは信仰的に保守的で、福音を信じる」とは言うが、創世記の正しさを研究されているクリスチャン科学者の本やDVDを学ぶことはせず、「そこから逃げる」傾向が強い。だから、創世記は説教で話さない。特に12章までは取り上げない。又、ダニエル書の二つの奇跡や、このヨナ記も話さない。説教は90%新約聖書だけになる。

 少し話す時は、ヨナに起こった事は、「比喩」「たとえ」であろうとなる。何か特別な試練に遭遇したことを、面白おかしく物語にしたのだろう、と。創世記の「ノアの洪水」も、実際は、一部中東地区で起きた洪水であろうとする。

➡しかし、一カ所でも、このような「人間的な解釈」を始めると、殆ど全てにそれが広がり、聖書の多くが信じられないこととなる。キリストの処女降誕も、パンのしるしも、癒やしやよみがえりも、そして復活も疑うようになり、最後は「再臨」を期待しなくなる。

③聖書の福音を信じ、聖書の創造の記述や、多くの奇跡の記述を信じるクリスチャンは、まず、次の姿勢が大事である。

  • 後日、主が明らかに答えを下さるまでは、疑わないで信じて、答えを待つ。
  • クリスチャンの科学者や考古学者たちの研究の答えを待つ。(探す)

~答えがわからないときは、委ねて、否定をしない。祈って待つことが大事。

2)御使いの助け

●20世紀(第一次世界大戦)でのある事件=大々的に報じられた奇跡。映画にもなる。

アメリカ軍の大隊(数百人)が進軍して、ある渓谷に差し掛かったとき、両側にドイツ軍の陣地があり、多くのトーチカ(砲台)から射撃され、米軍は全滅の危機に瀕した。

そこで、一人の米軍兵士(ヨーク軍曹)が、一人で小銃一丁持って、その中心を歩き、敵陣の背後に回り、順番にトーチカの兵士を殺害した。途中で、敵軍は米軍が背後から登場して攻撃していると勘違いして、ついに投降したという。

 後日、米軍の調査隊が調べたが、ヨーク軍曹は銃弾が飛び交うど真ん中を、一人で歩いて敵陣の背後に回ったことが明らかになり、何故それが出来たが誰にもわからないとの報告だった。その後、ニューヨーク、シカゴなどで戦勝パレードが行われ、数千万人以上が歓喜に包まれたが、そのパレード車に彼が英雄として乗っていた。勿論新聞も大々的に掲載。➡私は、彼が一人で砲弾の飛び交う中を進んだとき、御使いがバリヤを作っていたと想像するが、これはダニエルの炎の穴や獅子の穴と同じ。ヨナも同じように、御使いが人間には見えないバリヤを作って魚の腹の中で守られたのだと想像している。

3)歴史学者の調査

●実は、ヨナ記に関しての、とても興味深い歴史学者の報告がある。

①まず、アッシリア帝国は300年続いた大帝国であるが、「政治改革」が続けて起きた時期があるらしい。その間は、それまでの「派遣主義=帝国主義」政治をやめて、周辺諸国と平和的に政治を行った。つまり、侵略や領土拡張の覇権主義ではなく、平和国家の時代がかなりあったという記録があること。それが事実なら、ニネベ(アッシリアの首都)はヨナの宣教を真剣に受け止めて実行したこととなる。

●ヨナが訪問したと推測される時代のアダド・ニラーニ王は、諸改革を行った形跡があり、彼に続く三人の王の治世にもアッシリアの征服が中止されていた。そして、この期間にイスラエルは失った領土を回復している。(Ⅱ列王記14:25)これらは、ヨナの働きを暗示している。預言者であり、同時に政治家であったヨナが敵国の延命のために行かされることを嫌がったのは当然と言えよう。

②凶悪な帝国が、民政に力を注ぐ政治に政治改革をしたとすれば、彼らにとってよほどの衝撃があったと想像できる。それは、「嵐の海に投げ込まれて死んだはずのヨナが数日後陸に上がってきて、悔い改めを叫んだ」という衝撃的な事件が本当だったと想像できる傍証となる。

③又、ニネベの町の近郊にはユナスの丘があり、「ヨナの墓」があると言われている。(ユナスは現地語ではヨナの意味)現在も、その地は特別神聖な土地として調査が出来ないとのこと。

④最大の証言は、主ご自身の言葉である。

*マタイ12:40「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、裁きの時に、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」

三、ヨナ記が教えること

1)ヨナ個人の性格と信仰の問題

①ヨナは主のことを理解しているが、何事にも「素直になれない」面がある。但し、ニネベはイスラエルを攻撃してくる帝国の首都であり、預言者であり、政治家でもあったヨナには彼らに手を差し伸べることは出来なかった。

②主は「悔い改めると赦される」ことを知っていて、ニネベの人が赦されるのを好ましいと思えない。~選民意識~

③暑さで衰えると、「死んだ方がましだ」と言うところがある。

➡聖書はヨナの性格や信仰を主たる問題にはしていない。最後の主のことばを聞いて、ヨナがどうしたかは書いていない。私たちも、ヨナからは学ぶべきことはないかも知れない。

④ 但し。嵐の船の中で、問い詰められて正直に答えた点は良い。

⑤「私を海に投げ込みなさい」と言った点もいさぎよい。嵐が収まると理解していた。

⑥ユダヤ人にとっては渋々であるが、主は彼らを通して異邦人の救いを計画されていることを教えている。それは、彼らの失敗を通してもなされる。(十字架も同じ)

3)主からの使命を正しく理解していないと、

●ヨナは「ニネベに行け」との異邦人への使命を嫌がった。(異邦人に主の恵みが及ぶことはあってはならないとの思いがある)

●私たちも、自分に与えられている使命、役割を受け止めて、期待されていることを感謝して従えるかどうかが問われている。

それは、一人一人違うし、時期や状況の変化を通しても変わってきているように見えるかも知れないが、基本的には主の目は同じだと思う。

例えば、ある人には「牧師・宣教師」「海外宣教や開拓伝道のケースも」「教会代表者として、管理運営・委員、長老」「信徒説教者」「奏楽者」「司会、受付などの礼拝奉仕」「教会事務、会計や清掃、食事担当」「教育担当、子ども指導、奉仕、英会話、こどもクラス、英会話、英語バイブルなどの諸活動の奉仕や指導」・・・

教会によっては、保育所運営、教育、子ども食堂、幼稚園教育など、与えられた賜物によって役割がある。

●ニネベへの派遣は、とても大きい使命ではあるが、全世界のクリスチャンに同じ規模の使命が与えられることは少ないだろう。実際は、もっとささやかな奉仕、献身であることが多いと思われる。それでも、「自分には出来ない」と逃げているということはないだろうか?目の前に置かれていて、自分がそれを求めている、そういうことが今、或いは今後あるとすれば、我々もヨナのように逃げないことが大事だと、ここで教えられている。

 又、それが主のご計画であるならば一層、主の守りと導きを信じることが求められる。

2)大きい、小さいではなく、自分に与えられていることが恵み

●ヨナは、敵国アッシリアの救いという「嫌な使命」だったが、実際は、ヨナの物語は、メシヤ(キリスト)の復活と全人類に対する主の救いの使命を示した雄大な歴史的描写であった。私たちの使命も、今はわからないかも知れないが、忍耐し、又自分を誇らずに継続できれば、それはどんな大事業であるかは、ヨナと同じで後日、その価値がわかるだろう。

●それが大きいことか小さいことかもわからない、しかし、全て主はご計画を持って私たちを召して下さっているのであるから、疑わず、高慢にならず従う者でありたい。

●祈り �

③6月2日(日)礼拝

礼拝説教原稿―B⑥2019.6.2聖書箇所:ダニエル12章1-12節泉南聖書教会 大寺俊紀

「思慮深い人=賢明な者」

はじめに:今月は、先週に続いてのダニエル書であるが、先週の驚くべきエピソードが作り話でないことを確信できるのは、このダニエルが書いた多くの預言のことばは、素晴らしい真実性を持っているということにある。全部を紹介すると長くなるので、いくつか絞って取り上げたい。ここにあることばは約2600年も前のものであるが、21世紀の私たちにも関連する、重要なことが書かれている。

一、不思議な像の続編=帝国の歴史

1)7章のダニエルの夢と幻:

●この章にあるダニエルが見た夢と幻は、今後最後まで続く世界の歴史と未来に続くものである。それは、「4頭の獣」が海から上がってくる。預言では、「海」は地球上の海ではなく、人間社会を示している。そして「獣」は「帝国」の象徴で、別には「反キリストの独裁者」の場合もある。どちらも、神・創造主に逆らい、サタンの支配下にある。

●第一の獣は「獅子」のようで、鷲の翼をつけている。「人間のように二本の足で立ち、人間の心が与えられた」とあるから、帝国の王、独裁者である。*3-4)

●第二の獣は「熊」に似ている。その後見ていると、「豹」のような別の第三の獣が現れる。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれぞれに主権が与えられた。*4)

~第二の「熊」はメド・ペルシャで、第三の獣「豹」はギリシャであり、アレキサンダー大王死去の後は四つに分裂することが書かれている。

●人類全体、特に私たちに重要なのは、7節の「第四の獣」で、これは、一度は「ローマ帝国」として一定の役割を持つが、「終わりの時に、かたちを変えて再登場する」事となり、それも、「反キリストの獣」の登場の土台となるから、役割が大きい。

7節では、第四の獣は、恐ろしくて不気味で、非常に強く、大きな鉄の牙を持って、非常に強い。そして、10本の角を持っている。(10人の王?)

➡8節では、その角の間から、もう一本の小さい角が出て、初めの角のうち、三本が引き抜かれる。それは人間のような目を持ち、大言壮語する口があった、とあり、ヒットラーのような高慢な独裁者と見える。

2)「年を経た方」が座に着かれ、裁きがなされる。*7:9-

●7章は、後半のダイジェストである。8節まで書かれていた「終わりの時の獣」は9節からの幻によれば、「いくつかの御座」と「年を経た方の着座」があり、その御座の偉大さが10節に書かれている。まさに「天の主の御座」であるが、「いくつかの文書」が開かれ。「あの角=第四の獣から遅れて出てくる角」が大言壮語して、「殺され、燃える火に投げ込まれた」と最後の裁きをが書かれている。

●その裁きにはキリストも登場し、10節では、「人の子のような方が、天の雲とともに来られた」とあり、ダニエルは「キリスト再臨の幻」も見ている。*7:13)

~ここで、「人の子のような方」とあることばは、今後の重要な鍵のことばとなり、イエス様もご自身を「人の子」と呼ばれている。

➡勿論、最後の審判後、永遠の主権は、キリストに与えられ、滅びることがない。*14)

●7章後半(15から)は、ダニエルは、第四の獣について悩み、幻は彼をおびえさせ、彼はそのことを確かめようとする。

➡10本の角のあと、出てくるもう一本の角のために、三本の角が抜け落ちる。このもう一本の角が「聖徒たち=教会」に戦いを挑む、一時的に彼らに打ち勝つ。(20-21)

このことが、詳しく書かれているのが23-27節にまとめられている。

彼は、「いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを悩ます。・・・聖徒たちは、一時と二時と半時の間、彼の手に委ねられる」とあり、一定期間(ある説では三年半)独裁者として世界を支配し、その後滅ぼされることとなる。(*23-28)

3)エルサレム神殿を「汚した」ギリシャの将軍*8章)

●聖書の預言というのは、「時空を超越している」もので、この8章の預言は、バビロンの次のメド・ペルシャ帝国時代冒頭に書かれているが、その時代と、次のギリシャ帝国の時代の展開を書いている上に、この時代に起きることが、数千年後の終わりの時の前触れともなっている。それは、2百年後起こるのと同じ事が終末にも起きるというのである。

●3-4節にある一匹の雄羊に二本の角がある、その一本はもう一本よりも大きいとは、メディヤとペルシャの提携した帝国を意味する。

●5節から登場する雄やぎはギリシャで、際立って大きい角はアレキサンダー大王。彼は当時の世界中を制覇したが、若くして死に、ギリシャは四つに分裂する。(5-8節)

➡大きな角、アレキサンダー大王はBC331年にペルシャを破るが、5-8節の預言はBC539年に書かれているから、200年前の預言。

●この4分裂したギリシャのうちの四本の角のうち、もう一本の小さな角=シリヤの将軍(アンティオコス・エピファネス)が強くなり、南、東と、「麗しい国=イスラエル)に向かって来る。「天の軍勢」に攻撃し、「常供のささげ物」「聖所の基」を覆したとあるが、この将軍の聖所への攻撃は、終わりの時の下敷となり、予型ともなる

➡16節から、声があり、それは「悟れ、人の子よ。その幻は終わりの時のことである」と言われている。また、天からの声は、「ガブリエルよ、この人にその幻を理解させよ」と16節にあるが、御使いガブリエルは、更に500年後にイエスの母マリヤに受胎告知をされた御使いであるから、聖書が時空を超越している真理であることはここでもわかる。

●8章後半では、二本の角を持つ雄羊は、メディアとペルシャの王、毛深い雄やぎはギリシャの王、大きな角は第一の王・・・と詳しく説明されている。そして、23節からは、9-23節の預言が繰り返され、彼(もう一本の角)が砕かれると言う結末を示している。

更に、「これはまだ、多くの日の後のことだから」と追加される。26)

二、油注がれた者・君主の来る日

1)キリストの初臨

●1節では、次のことばはメディア人のクセルクセスの子ダリヨス(ダレイオス)が、カルデア人の国の王となったその元年、とある。ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、(ビロン捕囚の)年数が70年である事を、文書によって悟った」とあるから、このひとことも聖書の真実性を語っている。ダニエルは、バビロンからメド・ペルシャの時代にあって、宮廷に仕えながら、エレミヤのことばを見ることが出来た。そして、捕囚は70年であり、すぐに終わることを悟ったが、この「70」ということばは、新たなるキリスト来臨迄の70週の意味を持って語られる。

●21節で、ダニエルに近づいて来たのが二度目のガブリエルで、彼はダニエルに悟らせようとして来たと告げる。ダニエルが祈り始めたとき、「一つのみことばが出されたので、それを伝えに来た。」とあるが、それは、キリストの初臨のことである。*25-27)

*24「あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。・・・それは永遠の義をもたらすためである。」

*25「それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主(キリストのこと)が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。

*26「その「六十二週の後、油注がれた者は絶たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。・・・」

*27「彼は一週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす忌むべき者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。」

*24➡バビロン捕囚も70年だった。聖書では「70週」は一般に「7周年の70」を意味する。7を70倍した490年、あるいは70年を7倍する。「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから」とあるが、ペルシャの王は帰還命令を3度出している。(BC536,457,444年)この中の中心はBC457年で、エルサレム再建の命令が出された年であり、それに25節にある7週と62週で69週となりそれは483年。-457年に483年をプラスすると、紀元26年となる。それは、30才で、公生涯に入られた年である。(誕生はBC4年)

*26➡「六十二週の後、油注がれた者は絶たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。・・・」

➡キリストの死、そして、その40年後のローマ軍による破壊、民族離散(1900年間)

 ➡それは、半週=三年半の公生涯を送り、十字架にかかる。「一週の間の固い契約」は諸説がある。

●ダニエルは、メシヤ(キリスト)の登場する年を一年もずれることなく示し、三年半の活動と人類の贖いの為の死をも預言している。

 ➡残りの半週(三年半)は終末の獣の活動期間ではないかなどの諸説がある。

2)卑劣な者(11:21-35)

●11:5からは歴史預言はそれ以前の南の王の台頭からのギリシャ帝国の分裂後の争いを預言しているが、世界歴史に興味がない者には少しうんざりするほどの記述であるが、エジプトのプトレマイオスや将軍セレニコス・ニカトール、プトレマイオス2世の娘ベルニケ、クレオパトラ等が登場する歴史絵巻の預言であり、全てこの通りに展開する。

●大事なことは、21節からの「一人の卑劣な者」で、アンティオコス・エピファネスであるが、彼は21節の記述通り、正当な手段でなく、裏切りによって王位を得る。エジプトの支配者となり、エルサレムを攻略し、8万人のユダヤ人を殺し、4万人を捕囚とし、4万人を奴隷に売った。その後、アンティオコスは、再びエジプトに侵入するがローマの艦隊が退却させた。(30節)

●それで、彼は激怒して、はけ口をエルサレムに向け、宮を汚す。(31節)

以上の記述は、預言通りにアンティオコス・エピファネスが実際に全て行った。しかし、それに続く36節からの預言は、すこしおもむきが違う。アンティオコス・エピファネスの最後の行動とは違い、意見、解釈が分かれる。

  • 一つは、アンティオコス・エピファネスを指すと言う者。
  • マホメット教徒の聖地占領とする者、
  • 終末の反キリスト=「アンティオコス・エピファネスの再来」

●この預言は、テサロニケの手紙Ⅱ:2:3-8,マタイ24章、黙示録との関連で見ることが大事。

*Ⅱテサロニケ:2:4「不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついに自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」…同2:8)「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」8)

*マタイ24:15「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なるところに立っているのを見たらー読者はよく理解せよーユダヤにいる人は山へ逃げなさい・・・」

*同24:29-31)「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力はゆり動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が撰んだ者たちを集めます。」

➡キリスト再臨:クリスチャンはまず死者が、次に生き残っている者が復活のいのちを!

三、思慮深い者=賢明な者*12章)

1)3人の預言の一致

●今日学んでいるダニエル預言、そしてテサロニケの預言は(BC6世紀、AD1世紀)、主イエスのことば(預言)と完全に一致している。

「不法の者」「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』」がキリスト再臨の直前のしるしと教えられているから、しっかり学んで聖書の教えを信じて欲しいが、そのことの結果はどのような結論を招くかを12章が教えている。

●まず、その危機的な状況では、「大天使ミカエル」が立ち上がってくれるー御使いの大軍勢が私たちを守ってくださる。

➡12:1)「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。・・・

しかし、その時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。」

2)賢明な者(思慮深い者)は・・・*12:2-3)

●ここで、私たちの決断が大事となる。

*2)「多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。」

*3)「賢明な者たち(思慮深い者たち)は大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。」

➡2節は、しっかり考えて信仰を持つ者が、永遠のいのちを受け、曖昧にし、受け入れない人は「恥辱と嫌悪」=恥を見る、忌み嫌われる者となる事を教える。

➡3節は、賢明な者=思慮深い者、キリスト信仰を持つ人は大空の輝きのように輝く!

 多くの人に伝道し、証し、勧めをする者は「世々限りなく、星のようになる=輝く

3)あなたの割り当ての地に立つ!*13)

●7節には「一時と二時と半時である。聖なる民の力を打ち砕くことが終わるとき、これらすべてのことが成就する」とあり、11節にも約3年半の数字が書かれている。キリスト再臨の直前の患難の期間(約3年半?)を書いているが、いずれにせよ、私たちは守られ、「時の終わりに、割り当ての地に立つ」と約束されている。

●祈り

②5月26日(日)説教:大寺俊紀牧師

礼拝説教原稿―B⑤2019.5.26聖書箇所:ダニエル6章13-28節 泉南聖書教会 大寺俊紀

「燃える炉の中、獅子の穴での守り」

はじめに:今月は、復活祭の後に、「メッセージの休み」を戴いて、絵の制作に当てさせて戴いた。幸い、目標通りに作品が出来て、計7枚、7点の作品として京都市美術館の別館でのGe展に出品できて、今日午後3時まで展示されている。

 ところで、この「休暇」期間中、旧約聖書の中での大予言書の一つであるダニエル書があったが、取り上げることがなかったので、少し戻ることになるが、それを二回取り上げたい。1度目は1-6章をまとめて話すこととなる。

一、4人の少年たち

1)特別な守りの中にあったダニエル*1章)

●創造主の人類救済のマスタープランというのは、とても面白いもので、「バビロン捕囚」という大悲劇があっても、そこからの脱出に道を持っておられ、それに必要な人も備えておられた。その一人目がダニエルである。

●ネブカデネザルにより捕囚を受けたユダであるが、バビロンの王はユダの王族・貴族の中から特に数人を撰んで、備えをさせて自分の配下に置いた。少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿が美しく、知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王宮に仕えるにふさわしいものであり、彼らにカルデヤ人の文字とことばを教えるにふさわしいものであった、とある。王は、彼らに、王の食べるご馳走と王の飲むぶどう酒を、毎日彼らに割り当て、三年間、彼らを養育し、その後で王に仕えさせることとした。

●彼らは、ユダ族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤで、宦官の長は彼らにバビロン名を付けた。ダニエル➡ベルテシャツアル、ハナヌヤ➡シャデラク、ミシャエル➡メシャク、アザルヤ➡アベデ・ネゴ。

➡ここで、大事なことは、主は「官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた」*9)ことである。

●ダニエルは王が彼らに与えた食事を取ることを恐れた。(汚される)そこで、ダニエルは10日間野菜と水の食事を食べさせることを願い、10日間だけ許される。

➡10日後、彼ら4人は他のどの少年たちよりも顔色が良く、からだも肥えていたから、食事によって汚されることはなくなった。

●更に、神(創造主)は、知恵とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解く力を与えられ、それが今後のささえとなり、また全人類への貢献となる聖書預言の重要なことばを与えられる。

●21節には「ダニエルは、クロス王の元年までそこにいた」とあり、バビロンの崩壊とその後のメド・ペルシャのクロス王の時代まで王宮にいて働いたという驚くべきことばで1章が閉じられている。

2)王の見た一つ目の夢*2章)

●王はいくつかの夢を見る。まず、2章では、「一つの大きな像」の夢だったが、それは、世界帝国の歴史を預言して、後半はそれが展開して未来預言にもつながる。

●王は、カルデヤ人の呪法師、呪文師、呪術者たちを呼び寄せたが、自分が見た「夢そのものと、その意味を説き明かせ」と命じた。すると、カルデヤの呪法師たちは何も出来ず、夢の内容を聞かせて下さいと王に懇願する。しかし、本当に解き明かしが出来るのなら、夢そのものがどのようなものであったかをわからないといけない=適当な答えを出すことが出来るから、ということで、誰一人出来ず、王は怒ってバビロンの知者たち全員を滅ぼせと命じた。

●その時、ダニエルは、殺すために出てきた王の侍従長に知恵と思慮をもって応対し、解き明かしのために、暫くの時を与えて下さるように願った。ダニエルは3人の友にもこのことを知らせた。

➡そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、王の前に出た。

➡その見た夢は大きな像の夢で、巨大で、輝きは凄く、王の前に立っていた。

頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土。

●特に重要なことば~キリスト教会の預言~

「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像と粘土の足を打ち、これを打ち砕かれました。・・・像も砕け散る・・・そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」*35章)

●像の預言も人類の歴史を教える:

頭は純金:バビロン帝国

胸と両腕は銀:ペルシャ帝国

腹とももとは青銅:ギリシャ帝国

すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土:ローマ帝国。東西に分裂し、やがて諸国と融合していく

➡天の神による一つの国=永遠に立ち続ける国*44-45章)

永遠に滅ぼされることはなく、永遠に立ち続け、一つの石が人手によらずに切り出され、その像を打ち砕く、大いなる神が後に起こることを知らせた正夢である。

➡ダニエルは高い地位に付けられ、バビロン全州を治めさせ、全ての知者たちの長官とされた。*48)

二、金の像:「燃える炉」の事件*3-4章)

1)火の中を歩く

●2章の「不思議な大きな像」は、諸帝国の歴史と、それに続くキリストの永遠の王国の預言であったが、3章の金の像は預言とは無関係で、後に出てくる「獅子の穴」事件と同種の「燃えさかる炉に投げ入れられても守られた」というエピソードと言えよう。

●この「事件」では、ネブカデネザル王は、高さ60Mの金の像をドラの平野に立てた。

王は人を遣わして、国中の高官を集めて像の奉献式に参加させた。勿論、これはダニエルには一切意見を聞いていないことで、金の像を拝ませることによって、王自身の権威を高める狙いであった。ただ、何故か、3章の事件にはダニエル=ベルテシャツアルの名は出てこない。後の3人だけが登場する。

●像の奉献式のあと、あるカルデヤ人が進み出てユダヤ人たちを訴えた。「あのユダヤ人たちは像を拝んでいません。『ひれ伏して拝まないものはだれでも、火の燃える炉の中は投げ込め』と、王は命令されました。」というものである。

●王の前に連れ出されたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は像を拝まなければ燃える炉の中に投げ込まれる事を告げられるが、3人は拒否する。

*16B―18「『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことが出来ます。王よ。神は私たちを救い出すことが出来ます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知下さい。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』」

➡この18節(アンダーライン)のことばは素晴らしい。
●王はことばを聞いて怒り狂い「炉を普通より七倍も熱くせよ」と言い、3人を投げ込めと命じた。しかし、王の憎めないところは、この3人の言葉を聞いて、ダニエルらのユダヤ人の神を思い出し、「可愛そうなことをした」との思いを持ったことである。

●3人は燃えさかる炉に投げ込まれた。炉の熱さは厳しく、彼らを連れてきた者たちはその火炎に焼き殺されたほどであった。ところが、王は炉の中をのぞき込み、「火の中をなわを解かれて歩いている4人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ」と言っている。そこで、王が3人に対して『すぐに出て来なさい』と呼びかけると、彼らは火の中から出てきた。しかも、彼らの頭の毛は焦げず、上着も以前と変わらず、火の匂いもしなかった。

➡穴に投げ入れられた3人に対して、火の中を歩く人の姿は4人だった、とある。4人目は御使いの姿だろう。6章と同じ、主からの御使いの派遣である。

➡王は驚き、言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神、神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。」28)そして、彼らの神を侮る者はだれでも、厳しい裁きを受けるとの命令を出した。

2)ネブカデネザル王の病気*4章)

●4章でも、再び王は夢を見るが、それは「地の中心の非常に高い木」の夢で、その解き明かしもダニエルが行う。それは王の精神病で、自分を獣と思い込み獣のように振る舞うものだった。7つの時は7つの季節で、一説では3年半となる。

 このような恥ずべき事は王国の碑文には書かないのが通常なのだが、「4年の間、王国では重要な建造物は一つもなかった」という、王の乱心を婉曲に言ったのであろうというものなどがある。

●私たちにとって教訓となる重要なことは、王はダニエルの指導を無視して、高慢なことばを発したことである。王宮の屋上を歩いていた王は、「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか」とのことばが、まだ王の口にあるうちに、天からの声があり、預言が成就した。

~私たちクリスチャン、また特に上に立つ者は、この高慢を戒めとせねばならない。

3)人間の手の指が壁に字を書く*5章)

●5章1節にあるベルシャツアル王は、ネブカデネザルの孫に当たる。2節には「父ネブカデネザル」とあるが、「父」は祖先のことで、実際は祖父。ネブカデネザルの子はナボニドスであるが、彼は息子のベルシャツアルを摂政(王が幼少のときに変わって政治を行う)に任じ、バビロンの政務をおおよそ10年間委ねた。王子であったがバビロンの王と呼ばれた。そして、彼はダニエルを「この国の第3の王」と布告した。

●5:1)「ベルシャツアル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、ぶどう酒を飲んでいた。」5:2)その席に、ネブカデネザルがエルサレムから取ってきた金、銀の器を持って来させ、皆と一緒に、その器でぶどう酒を飲んだが、その時、突然人間の手の指が現れ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所にもの(もじ)を書いた。

➡王はその手の指を見て、おびえて、がたがた震えた。(6)

➡いつもの通り、ダニエルが呼ばれ、ダニエルが書かれた物を解き明かす。

●17節から解き明かしがあるが、4章にある記事が下地となり、ネブカデネザル王の病気のことを教え、そのことを知りながら学ばなかったベルシャツアルの高ぶりを戒める。そして、書かれた文字とその意味はこうである。「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」

「メネ」:「神があなたの治世を数えて終わらせた」

「テケル」:「あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかった」

「パルシン」:「あなたの国が分割され、メディヤとペルシャとに分けられる」

➡その夜、ベルシャツアル王は殺され、メディヤ人ダリヨスが、おおよそ62才でその国を受け継いだ。

➡この記事は、単なる事件やエピソードではなく、帝国の歴史と預言に関する証言である。

三、獅子の穴での守り*6章)

1)ペルシャ時代に続く主の守り

●ダニエル書は二つの帝国の時代にまたがっている壮大な内容であるが、6章までは、比較的に預言の内容は少なく、ダニエルと共にまつわる、主の守りのエピソードが多い。

6章は、3章の「燃える炉の中での守り」に続いての「獅子の穴での守り」と呼ばれる。

●まず、ダリヨスという王の名が私たちを驚かす。5章の王はバビロン帝国、6章の王ダリヨスは次の帝国メド・ペルシャの王であるから、ユダヤ人でありながら、ダニエルは次の帝国でも王の側近、重要な役職を受けて王宮で働いていたと言うことになる。これは実に驚くべき事で、今で言うなら、捕虜のユダヤ人がソ連の大臣、次のロシアの大臣やアメリカの大統領特別補佐官になる以上の、あり得ない処遇であるから、「周囲の妬み」も当然多かっただろう。

●メド・ペルシャのダリヨス王は120人の太守を任命して国を治めさせ、その上に3人の大臣を置くことを決め、ダニエルをその3人の内の一人とした。(大統領特別補佐官)

3人の大臣の一人でありながら、ダニエルが特に優れているからとして、王は3人の中でのトップにダニエルを置こうとしたので、それは周辺の反発を受けた。

●大臣や太守たちは、ダニエルの国政について何の訴える口実も見つけられなかったので、ダニエルの神について口実を見つけるより他にないと思った。そうなると、王を礼拝する事を命じて、従わないダニエルを訴えるという筋書きになる。

➡国中の大臣、長官、太守などが集まり、王が一つの法令を制定することを王に進言する。「王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者は誰でも、獅子の穴に投げ込まれる」と。*7)

➡ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。ダニエルは、その法令のことを知っていたが、帰宅するといつものように、エルサレムに向かって窓が空いている屋上の部屋で、日に三度ひざまずき、祈り、感謝していた。

➡ダニエルを訴える計画の者たちは、やって来てその姿を見てすぐに王に告げていった。

●ダリヨス王は、ダニエルを救おうと決心し、救おうと努めたが、出来なかった。

➡ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王は悲しみ、「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救い下さるように」と言った。

2)守られたダニエル

●勿論、ダニエルは守られた。これが「獅子の穴での守り」の内容であるが、このときも、「御使い」がいて下さり、獅子の出入りする穴を塞いでくれた。王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。そして、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子たちと共に捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれ、ことごとく獅子にかみ砕かれてしまった。

3)守られた三橋牧師ご夫妻

●この燃える炎の中と獅子の穴の事件を読むと、色々な主のわざを思い出すが、特に先日の三橋牧師ご夫妻との午後のお話(証し)を思い出す。~三橋牧師ご夫妻は、ハワイでの開拓にはとても苦労をされ、10カ所ほど転々とし、人も少なく、ある年に半数の数十人が一斉に退会して他に行ったとか。~この教会には未来がないとか言って~

➡ところが、その年に、元々5億円だったというホノルル市の中心地の元日本人学校が与えられたとのこと。

  • 色々努力してくれる人がいて、工夫もして、購入金額が大幅に減ってきた。
  • とても対応してくれるはずがないと言われていた不動産屋さんが対応して下さった。
  • 現状の家賃の、毎月の支払い金額にまで近づいてきたが、あと4千万円現金が不足。
  • 一人の女性が自宅を売って3千万円備えてくれた。(他は貧しい人ばかりで不可能)
  • 最後の1千万円は、日本人学校の理事会で「学校が売却できれば、どこかに寄付すると決めていた」ので、それを教会に寄付して下さり、決着して一日だけ1千万円を借りて、その日のうちに返却して完済した。

●以上のような奇跡的な備えがあり、主の守りがあってホノルルの教会が出来たのだという。その後、父の死によって、札幌から帰国の要望があった際、日本のある牧師から「ハワイの教会の牧師は私の息子がします」との申し出があったが、それは「教会乗っ取りになる」拒否し、信徒から二人を撰び代表者・牧師として任命しているとのことである。

この証しは、まさに、獅子の穴での守りや燃える炎の中からの救出に匹敵するほどの大きな主のみわざである。

~この証しを伺い、本当に主に従う者には、主が守って下さる、人間業ではない事をして下さると改めて思わされた。私たちも、人間業に頼らず、今後も主を信頼して歩みたい。

●祈り


①5月12日(日)説教:草場伸滋兄(信徒説教)

信徒説教 2019.0512 コリント人への手紙 第2 6:1-18泉南聖書教会 草場伸滋

「神とともに働く者」

はじめに:一日一章の今日の聖書箇所は、コリント人への手紙第二の7章であるが、この箇所は昨年9月の信徒説教で取り上げているので、今日は第6章からとしたい。これも主のご計画によるものと感謝して受け止め、「神とともに働く者」というタイトルで、信仰のあり方を学びたいと思う。まず、次の二つの事を思い描いて欲しい。

1)コリント教会の生い立ち

コリントの教会は、パウロの大いなる働きと大変な苦労によって(=第二回伝道旅行)誕生した教会である。②パウロはユダヤ人の殆どが反発するという苦難に会いながらも、精力的な働きを続けた。その結果、異邦人であるコリントの大勢の人々がイエス様を信じるようになり、コリントの教会が誕生した(使18:5-17)。③でも、順風満帆の船出ではなかった。ユダヤ人による迫害の激化、教会内での分派争い、不品行の横行などのトラブルが生じた。そういう中にあってパウロは、テトスの協力を得ながら、コリントの兄弟姉妹たちに対してあふれるばかりの愛を示しながら、キリストに従順であるようにと諭した。④こうした働きによって、コリントの教会は誤りに気付き、パウロへの信頼も回復した。

2)パウロの生い立ち

①パリサイ派(ピリ3:5)のユダヤ人(使徒21:39)で、「自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心」であった(ガラ1:14)。②故に彼は、先頭に立ってキリスト教徒への激しい迫害を行っていた(使8:1-3)。

③ある時「・・・主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて・・・(使9:1)」「・・・ダマスコの近くまで来たとき・・・」天からの光にうちのめされ(使9:3)、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた(使9:4)。④その声が復活されたイエス様であることを知った彼は、イエス様の指示通りにダマスコに入り、改心してバブテスマを受け「そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使9:5-20)。⑤この創造主の大いなるご計画によって、キリスト者を激しく迫害する者であったパウロは、命の危険に冒されるような抵抗に会いながらも負けることなく活動を続け(1:8-9)、初代教会最大の宣教者、異邦人への使徒となったのであった。

これらのことを念頭に置きつつ、Ⅰコリ6章から「神とともに働く者」というタイトルで、信仰のあり方を学びたいと思う。

一、神の恵みをむだに受けない(6:1-2)

●まず、次のパウロのことばを噛みしめたい。

「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。(6:1)」

何と味わい深いことばであろう。暖かで力のある雰囲気が迫って来るように感じる。それは何故だろうか。私は、パウロが「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」とのことばに込めた気持ちが伝わって来るからだと思う。

●*Ⅰコリ)15章で、パウロは次のように言っている。

⇒「・・・私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。(Ⅰコリ15:2)」

⇒「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、・・・次の事です。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、(Ⅰコリ15:3)」

⇒「また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(=ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。(Ⅰコリ15:4-5)」

⇒「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。・・・その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして最後に、・・・私にも、現れてくださいました。(Ⅰコリ15:6-8)」

●この救いのことば(=福音)を聞く特権が与えられたということは、「今は恵みの時、今は救いの日(6:2)」なのである。即ち、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(5:14)」ということなのである。だから、この「神の恵み」を、私たちは感謝して受け取り、「むだに受けないように」することが大切なのである。

では、どのように受ければ良いのか。パウロは、次のように言っている。

⇒「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(5:15)」

●パウロは、主の教会を迫害す者であった。ある日、主の声が彼に下った時、彼は迷わずに主の声に従った。そしてイエス様の使徒へと変えられた。彼は主の救いのみことばを、迷わずに正しく受け止め、イエス様の使徒として働く者へと変えられたのだった。

このことを感謝して、パウロは次のように表現している。

⇒「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。(Ⅰコリ15:9)」

⇒「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(Ⅰコリ5:10)」

「神の恵み」を「むだに受けないようにする」とは、こういう事なのだと思う。

二、真理のことばを伝える(6:3-8A)

1.使徒パウロの苦労(6:3-5)

●使徒パウロは、「神とともに働く者」である。そのパウロが次のように言っている。①「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、(6:3)」して来た。②何故なら、十字架の福音そのものがユダヤ人にとってはつまずきであった(Ⅰコリ23)からである。③だから、福音を宣べ伝える者が「・・・そしられないために・・・あらゆることにおいて自分を神のしもべとして推薦しているのです・・・(6:2-4)」と、声を大にしている。

それが実際にはどのようなものだったのか、*6:4-10)にあるので見ていきたいと思う。

●パウロの「神とともに働く者」としての活動は、「むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、(6:5)」遭遇したと言っているように、大変な困難を伴うものであった。この苦労のことは、11章でも語っている。

⇒「・・・牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数知れず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむち打ちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。(11:23B-24)」

⇒「労し苦しみ、たびたび眼むられぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(11:27)」

パウロの「神とともに働く者」としての活動は、「・・・非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、(6:4B)」の活動だったのである。

2.自分を神のしもべとして推薦する(6:6-8A)

●パウロが使徒としての働く上での信念は、「自分を神のしもべとして推薦する」ことであった。「この(=使徒としての)務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦している(6:3-4A)」ということであった。では、実際にはどのように行動したのかと言うと、

1)「純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、(6:6)」に生きた。

彼は聖書に導かれて歩み、キリストに対する真実と貞潔を失うことなく(11:43) 主に従い、御霊の実(ガラ5:22)に満たされていたのである。

そんな彼の次のことばを、共に噛みしめようではないか。

⇒「・・・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることが出来るのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(Ⅱテモ3:15B-17)」

⇒「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりま

せん。(Ⅰコリ13:4)」

2)「真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、(6:6)」支えられ、助けられた。

 パウロの伝道活動は、死を覚悟する程の様々な困難や苦労を伴うものであった。苦労の中にあった彼を、創造主は、しっかり支えてくださったのである。

その主への感謝の気持ちを、第一の手紙の中で次のように表現している。

⇒「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。(Ⅰコリ2:3)」

⇒「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。(Ⅰコリ2:4)」

⇒「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(Ⅰコリ2:5)」

●パウロでさえ弱いのである、ましてや我々に至っては、比べようもなく弱い存在である。そんな私たちに対して、パウロが励まし教えている。

⇒「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペ6:17)」。

私たちはこのパウロの励ましを心に刻み、パウロを見習い、聖書に導かれて歩む者として、イエス様に対する真実と貞潔を失わないように、御霊の実に満たされる者であるように、共に祈りながら歩んで行こうではないか。

三、すべてのものを持っている(6:8B-10)

●これまで見てきたように、パウロは大変な苦労の中で「神のしもべ」として働いて来た。

イエス様を受け入れようとしない者たちから、耐え難い反発を受けたのである。彼は、自分たちはまるでこの世のちり、あらゆるもののかすみたいだと嘆いている。

⇒「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る者もなく、虐待され、落ち着く先もありません。・・・はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。(Ⅰコリ4:11-13)」

●でも、これは表面的な姿であり、本当の姿はこうなのだと、*6:8B-10)に示している。

⇒「・・・私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、

良く知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないよういでも、すべてのものを持っています。(6:8B-10)」

このことを少し掘り下げて見ていきたいと思う。

1)まずパウロの、使徒としての根本的な姿勢は、どのようなものだったのかと言うと、

⇒「・・・神はいつでも・・・至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。(2:14)」

⇒「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。(2:15)」

⇒「ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。(2:16)」

このように問いかけたパウロは、この重要な務めを果たすために、神に立てられたのが使徒だと答えている。

⇒「・・・私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。・・・(3:5-6)」

イエス様を受け入れようとしない者たちは、パウロをキリストの直弟子ではない「人をだます者」だと批判した(Ⅰコリ9:1-2)。でも、誰が何と言おうと、パウロは「神のみこころによる使徒パウロ(1:1)」なのである。

2)「神のみこころによる使徒パウロ」は、いつも神が自分たちと共にいてくださることを、心から感謝していた。

⇒「・・・私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(1:8-9)」

⇒「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。・・・(1:10)」

この確信が、「見よ、生きており」の一言に凝縮されているのである。

3)冒頭で触れたようにパウロの宣教活動は、「労し苦しみ、たびたび眼むられぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」というほどであった。彼の手元には、何一つ残っていない状況であった。でも、彼は「何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」と、喜んでいるのである。

「非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中(6:4B)」にあったのに、このように喜べるのはどうしてだろうか。それは、彼がイエス様を心から信頼し、主の愛に深く感謝していたからである。

⇒「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(8:9)」

この主の愛を、パウロは*ピリ2:6-8)で次のように表現している。

⇒「キリストは神に御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、」

⇒「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」

⇒「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

この大いなる主の愛を感謝して、パウロは「何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」と喜んでいるのである。

◆そのパウロが、私たちに励まし呼びかけている。

⇒「そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。(Ⅰコリ3:23)」

私たちは、創造主との愛と、パウロの働きに深く感謝を捧げながら、共に教会生活を励もうではないか。

祈り f3

コメントを残す


泉南聖書教会

map〒590-0522 大阪府泉南市信達牧野820-4
℡072-483-0590 FAX072ー482-7332
JR和泉砂川駅から西600M 、泉南市信達牧野の宮脇書店やブレスガーデンの南100Mです。西側にスーパー「ラ・ムー」があります。
駐車場は教会横、およびローソン北100mの場所にある駐車場(土日限定)です。
お近くまで来られたら、お電話下さい。

コンタクト

「コンタクト」ページにあるフォームを使うか、直接お電話を下さい。
メールを送られる場合のアドレスはこちらです。
t.odera4000@gmail.com
(☆を半角の@に変更して下さい。)

Login