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21日午後復活祭コンサートでの話しの原稿

      「復活の希望があります!」   2019.4.21 大寺俊紀

聖書箇所*マタイ17:22-23「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。すると彼らは非常に悲しんだ。』」

  • 皆さんは、死後の復活=永遠の命を信じておられますか?
  • 何故、信じられないのでしょうか?

~「今、見ている世界では、誰ひとり復活していないから」、「あり得ないと思うから」

➡私たちは信じています。又、信じる者にはそれが与えられると約束されています。

 信じられる理由をお話ししましょう。

  • この世界は、創造主によって創造されたと信じられるからです。
  • もう一つは、聖書が信じられるからです。
  • この世界は、創造主の作品

「宇宙探査機」:空気、水、植物のある星が発見されたことがあるか?・・・ない。

地球は全宇宙の中の「特別な星」太陽系の中の極めて狭い「ハビタブルゾーン」にある。

「太陽系銀河は全宇宙の中心」世界中の天文台の観測で発表されている!

➡地球が作られ、4日目に太陽と月、星が造られ、それ以後広がっているとの記述通り

ハワイ・マウナケアスバル望遠鏡(サイエンス)

「天動説と地動説」99.9正しかった!こととなる。1%の間違い。地球は太陽系の中心の太陽の周囲を回っている。しかし、この太陽系は全宇宙の中心になる!

  • すべての被造物、私たち人間も創造主の作品

詩編139:13「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです、」15-16)「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。私のために作られた日々が、しかもその一日もないうちに。」

詩編94:9「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。」

➡不信仰のことばを聞き、見ておられる。「救いか裁きか」

眼:1 光が水晶体、ガラス体を通り網膜へ。 

2,網膜には色・形見分ける錐状体細胞約2千万本、明暗を見分ける細胞約1億本

視細胞(0.2ミリの網膜の中に約1億2千万本が並び、円板が並び、光が来ると、ロドプシンから、白い11―シスチナールがはじけ、そのエネルギーを電気信号に変えて脳に送り、脳が見えたと理解する、ということ。

●心臓:1日に10万回拍動する。1日10万回。一日に送り出す血液の量は8トン。(牛乳パック8千本)8トンのタンクローリー一杯の血液を全身に送る。

●血液が送られる「血管」:長さは、10万キロ。地球2周半。(毛細血管含む)それをたった30秒で一周させている!・・・不信仰は最大の罪、

  • 聖書の素晴らしさと、その救いの素晴らしさ=創造主の愛

●①世界で最も古い書(約3500年前~199年前)②完成後一度も追加変更なし。③

約40人で66巻、一切矛盾なし、間違いなし。④約1600年間お互いに相談しないで書く。⑤キリストは全て預言されてきたとおり、ベツレヘムで生まれ(処女から)、ガリラヤで育ち、⑥30才で世に出られ、多くの人をいやし、死からよみがえらせ、⑦預言通り、自分でも教えていたとおり、逮捕され、十字架刑に。⑧三日目に復活して40日間過ごし、目の前で天に上られ、再びエルサレム(世界の中心地)に再臨すると約束。⑨信じる者には過去の不信仰の罪を赦し、復活のいのちを与える約束してくださいました。

●「イエスは彼らに言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」ヨハネ14:6)

宇宙大規模構造:ハワイ・マウナケア山頂スイバル望遠鏡による。サイエンス2006年1月号





礼拝説教原稿―B③2019.4.21聖書箇所:ローマ1章1-4節 泉南聖書教会 大寺俊紀

「創造と復活」

―復活祭礼拝―

はじめに:私が死と復活を話すときには、必ず「創造主の愛」として語ることにしている。それこそが聖書の中心であり、主の福音の土台だと教えられているからである。私たちに復活の命を与えたいというのは、現在、老・病・死に苦しんでいる私たちを救い、ご自身と同じ永遠の命を与えたいとの、創造主ならではの強い願いだと思えるからである。今日は、時間が限られているので、先週の半分ほどのメッセージとなる。

一、福音は救いを得させる神の力*16)

1)「ぜひ福音を伝えたい」*15)

●今日は、ローマ書1:1-4だけを読んでいただいたが、聖書全体から復活について、簡潔に話しておきたい。

 パウロは、ローマ書を書くにあたり、「福音とは何か」ということを知ってほしいとの強い思いで書き始めている。

 そもそも、ユダヤ教の青年指導者で大祭司の有力候補でもあったパウロは、7日にも話した通り、キリスト教会を迫害するために奔走していて、直接イエス様に呼び出された。

 そこで、啓示された最も大事なことは、「律法を守ることによる救い」ではなく、「キリストの復活」による救いである。言い換えると、「律法を守り」「自分の努力、節制」によって「勝ち取る」救いではなく、「キリストの贖いの死」による「罪の許し」であり、その保証が「復活」であるから、それは「一方的に与えられる恵みによる」もので、本当に「良き知らせ=福音」であった。

●パウロはこの結論を先に提示して、その後順次展開するが、その中で一番重要視しているのが、1章の結論である「創造主による創造の否定=偶像礼拝の罪」である。

2)死と向き合っても、永遠と向き合わないと開けない

●今年になって、ある祈りの友の女性が、ある「癌」で亡くなられた。手術が特に困難な部位の内臓なので、手の施しようがなかったのだと推測しているが、他にも同じ病いで悩んでおられる男性もおられる。その方のお気持ちを聞くと、医師は手術を勧めるそうだが、手術は極めて困難で、術後に寝たきりになるリスクが高いことを案じておられる。手術なしで、今のまま続けばあと数年は・・・という期待を持っておられるが、その場合は癌のリスクが高いとのこと。

 手術に関しては、私は何も言えないが、どちらにしても暗闇を目の前にしての難しい選択となるが、私は、その先の「永遠」を考えることをお勧めしている。その場合の鍵は「復活」である。もし、キリストの復活がなかったのなら私も何も言えない。人間の教え、考え、宗教、哲学であり、確かな保証や希望がないからである。「キリストという方が、復活や永遠を説いたらしいが、その方は二千年ほど前に亡くなった一人の宗教者である」ということなら、他の宗教と変わらない。

3)福音の保証はキリストの復活

●今日は復活祭礼拝なので、ここからは復活を中心に話したい。

ローマ書1章のことばの最初は、イエスキリスト」に関する福音から始まるが、4節は、「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」とある。

 キリストが創造主である天の神の御子として確信できるのは、その「復活」によるのである。さらに、次のコリント書では、キリストの復活は私たちの罪の赦しの保証であり、又、復活の保証であることが宣言されている。

*Ⅰコリント15:15-20「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

➡キリストが復活されたことが「保証」となり、信じる者は「復活のいのちを受ける」のである。

二、復活が救い=福音の保証Ⅰコリ15章

1)復活を伝えた初代教会に、復活を疑った者もいたⅠコリ15:12-

●ご存じの通り、初代教会の宣教の中心は「キリストの復活」だった。それは長い困難な闘いであったが、もっとも力強く、信者を励ますものだった。初代教会時代の迫害はすさまじく、長く続いた。ローマがキリスト教国になる迄の約300年間とも言える。

 もっとも激しかったのはネロの時代で、捕らえられたクリスチャンは、ローマの街の中で、柱に縛られ、油を塗られて「灯り」にされたと伝えられている。最近のパウロの映画でもその様子があった。

 彼らは、どんなに迫害を受け、殺されてもキリストが救い主だと伝えた。その時の最大の根拠・保証としてキリストの復活が語られたのである。

●しかし、年月と共に弱くなる人、疑う人も出て来た。推測するに、教会スタート時には、「自分自身が復活のイエス様を見た」という強い体験のある人から始まったが、広がると共に実体験の証言力が弱まり、疑問視する人すら出てきたと言うことではないだろうか。それが次のように書かれている。

**12-19)「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。17)

 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。19)

2)しかし、キリストは眠った者の初穂*20-22)

●しかし、…パウロはキリストの死からの復活を宣言する。そして、死が一人のひとを通して来たように、死者の復活も同じである、言われている。

*20-22)「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死が一人の人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」

➡最後の20-22節をおさらいしておきたい。

●アダム:創世記2,3章にある通り、「これは食べてはいけない」と言われた木の実(善悪の知識の木の実)を食べた。これは、「善悪を自分で判断する生き方」のことであろう。主のことばを聞き、それに従うのでなく、自分で考え、決めて生きる生き方である。サタンの誘惑も、「食べてもあなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」とのことばであった。(創世記3:4-5)

 この誘惑を受けて乗り、警告された通りに罪を犯し、死が入った。

➡以後、全人類に「生まれながらにすべて正しい、」という義人はなくなり、不従順の罪を犯し、死ぬからだとなった。これを「原罪」と呼ぶ。生まれながらに創造主である神を信じ、従う人はいない。そして、死なない人もいない。「死が一人の人を通して来た」のである。しかし、「死者の復活もひとりの人を通して来た」・・・これこそ、キリストの復活による救いであり、その保証がキリストの復活である。

➡旧約聖書は、人類の罪を赦し、救うために来られる救い主(メシヤ=キリスト)を数多く教えている。生まれる時(ダニエル書)、土地(ミカ書、ベツレヘム)、処女からの誕生(イザヤ書)など、特に750年前のイザヤ書に詳しい。ダビデの子孫として生まれること(千年前のⅡサムエル7:12-13)、十字架刑を受けて苦しむこと=それが身代わりの贖い(詩篇22編、イザヤ53章)だと預言している。

●最後に、「キリストは眠った者の初穂」とは・・・クリスチャンの死は「眠ったもの」と書かれていて、やがてよみがえることを示唆する。「初穂」とは、キリストが最初の復活、クリスチャンはこれに続く、ということ。

3)最初のアダムと最後のアダム*20-22節)

●この復活の問題に、「6日間の天地創造」が関連する。

「死が一人の人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」20-22)という死と復活は、「6日の創造」を否定すると成立しない。

  • 進化論」にそって解釈すると、どの説も、「6日の創造は数十億年の進化」となる。すると、アダムは30億年以上経過して、その間に無数の死と淘汰があって、最後に人に進化したとなる。だから、アダムの罪と死の前に、「無数の死」があり、「アダムの罪による死は嘘」になる。ということは、最後のアダムの救いも嘘となる
  • イエス様ご自身の言葉にも、主は最初から人を男と女に創造された=6日目に創造したと言われている。アメーバーから、そして猿からの進化とは言っていない。

*マタイ19:4-5)「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。・・・」

  • 仮に、人が30億年以上もかかって、進化によって出来たのなら、人の復活も又どれだけ年月がかかるかわからない。聖書の教え通り、6日目に創造されたのなら、キリスト再臨の時は一瞬にして復活の身体を与えて下さるであろう。
  • ローマ書1章後半は、人の罪の原点は「創造の否定」にあると書いている。

*18-21)「・・・人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神(創造主)の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神(創造主の)のめに見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神聖は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、」21)・・・「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方だからです。アーメン」*25)

三、復活の確かさ(要点)

1)誰も、心から信じていなかった

●Ⅰコリント15章冒頭の1-8節を見ておきたい。

*Ⅰコリ15:1-8)

①「あなたがたに福音を知らせましょう」1)

②「この福音によって救われるのです。」2)

➌「キリストは、私たちの罪のために死なれたこと」3)

  • 「葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、3日目によみがえられたこと」4)
  • 「ケパ=ペテロに現れ、それから12弟子に現れたことです。」5)
  • 「その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」6)
  • 「その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。」7)
  • 「・・・最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れて下さいました。」8)

➡特に6節のことばの真実性が大きい。復活が嘘なら、500人以上の人たちは、聖書は嘘を書いていると言ったはずで、命をかけて、「復活された」と伝えるはずがない。

 人は「嘘」のために命をかけないはず。

●キリストは復活されることを、使徒たちに何度も伝えていた。

「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。すると彼らは非常に悲しんだ。』(*マタイ17:22-23)

●信じる私たちにも、同じいのちを下さる。信じて、感謝して受け取ろう。

●祈り

礼拝説教原稿―B②2019.4.14聖書箇所:ローマ11章11-31節 

                  泉南聖書教会 大寺俊紀

「主のマスタープラン」

―イスラエルと異邦人の救い―

はじめに:イスラエルは、主に選ばれた民でありながら、何度も主に背き、怒りを受けたが、今日は、その裁きの前に、主の民として選ばれた恵みから復習したい。

 アブラハムの孫のヤコブから生まれた12人の息子たちがイスラエルの12部族とされ、大飢饉のときにエジプトに移住するが、そこで、定着して400年後にモーセが約束通りに出エジプトを行い、その後荒野で「10戒と律法」を与えられ、祭司の氏族(レビ族)が選ばれ、「主への礼拝、幕屋」なども教えられる。

 預言者たちはすべてイスラエル人であり、旧約の聖書記者も全員イスラエル人、キリストもイスラエル人として世に来られ、12使徒もすべてイスラエル人である。

 しかし、聖書は、イスラエル人だけの救いを教えているのではなく、かえって多くのイスラエル人が救いから漏れることを預言している。

*ローマ9:25-27「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。『わたしは、わが民でない者(異邦人のこと)をわが民と呼び、愛さなかった者を愛するものと呼ぶ。【あなたがたは、わたしの民ではない】と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。』また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。『たといイスラエルの子どもたちの数は,海べの砂のようであっても、救われるのは、残されたものである。』

では、イスラエルは今後どうなるのだろうか。そして、異邦人(私たち)はどうすればよいのだろうか?今日は,このことを学びたい。

一、イスラエルの役割と罪(失敗)

1)旧約の歴史から

●聖書創世記の最初の人アダムも、イスラエルの祖となる人であるから、アダム以降の罪も,大きく見れば,イスラエルの罪に含まれるかも知れないが、それは置いておき,モーセによってエジプトから脱出させていただいた数百万人の民=ヤコブ=イスラエルの子孫の罪から始めよう。箇条書きにしてみる。

1)荒野での訓練の時:もし、彼らがモーセに従い,約束の地に入っていれば、荒野での厳しい40年の生活はなく、十戒と律法などを受けて、すぐにカナン侵入=約束の地の取得のための戦いに入っていたはずである。しかし、彼らはモーセに反発し、ヨシュアやカレブの信仰に学ばず,カナンの地の先住民を恐れて、その地に入ることを恐れ、反対に、金で作った偶像を先頭に、「エジプトに戻りたい」というとんでもない主張をしてモーセに対立した。

2)又、荒野での訓練の期間も,最初から「水がない」「肉を食べたい」と不満を漏らし,モーセに反発した。

3)怒った主は、ごく一部を残し,厳しい裁きを与えた。又、成人全員が荒野で死ぬまでの約40年間を荒野で過ごすことを命じた。約40年後世代交代したイスラエルはヨシュアを先頭にカナンの地に入った。

4)数百年後、ようやくイスラエルはカナン全土を統一し,ダビデが統一国家の王として統治した。そしてソロモンが引き継いで,王国をさらに安定させた。(BC1000~930頃)

 ソロモンは優れた王であったが,700人の王妃と300人のそばめを持ち、妻達がソロモンに偶像礼拝を勧めて,それらがイスラエルに公然と入ってきた。

5)ソロモン死後すぐに王国は南北に分裂し,特に北王国は「偶像礼拝」にまみれた。南では,主に戻る信仰深い王も多く輩出されたが,徐々に衰退し,信仰劣化が進んだ。それは周辺諸国の,特にバアル宗教への傾倒で、「赤子を捧げる」おぞましいものだった。太陽、月などの天体崇拝、豊穣の神、動物や虫、水や自然崇拝など。

6)偶像礼拝の特に激しかった北イスラエルはBC721年に滅亡させられた。滅亡前には,預言者がアッシリヤの攻撃があることを度々警告したが、主の声には聞こうとしなかった。

7)南ユダにも偶像礼拝を行う王が多数出た。彼らはエルサレムの神殿の中に偶像礼拝の座を設け,偶像を置いた。信仰深い王が出たときは,それらは焼かれたが、何度も元に戻ることが繰り返された。エゼキエル書に詳細がある。

*エゼキエル23:39「偶像のために,自分たちの子どもを殺し、その同じ日にわたしの聖所に来て,これを汚した。彼らはなんと、このようなことをわたしの家の中でした。」

*同8:5「北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。」10節「私が入って行ってみると、なんと、はうものや忌みきらうべき獣のあらゆる像や,イスラエルの家のすべての偶像が、まわりの壁一面に彫られていた。」

*同8:14:「…女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。」16:「彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東の方に向けて,東のほうの太陽を拝んでいた。」など。

8)南ユダはBC606-536年の70年間バビロン捕囚を受けた。それはイザヤによって預言、警告されていた。しかし、解放も告げていた。それもバビロン後のメド・ペルシャのクロス王にそれをさせるとの約束もしていた。又、エレミヤも,その捕囚は70年であると預言した。

*イザヤ39:6「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで,たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つのこされまい、と主は仰せられます。」

*イザヤ45:1-13「主は、油注がれた者クロスに,こう仰せられた。・・・(中略)「わたしは勝利のうちに彼を奮い立たせ,彼の道をみな,平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。」13)

*イザヤ48:20「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。・・・」

*エレミヤ29:10-11「まことに,主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』」

9)こうしてイスラエルは帰還し,エルサレムの町も神殿も再建された。しかし、約600年後の起源七十年に再度滅亡する。それは、約1900年間も続くが、今度も再建されることが同時に言われている。

①モーセ(BS1500年頃)の預言

*申命記28章:バビロンに襲われることと、ローマ帝国に襲われることが重なって描かれている。

28:49「主は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。・・・(その攻撃のすさまじさ、悲惨さが続く)

28:64「主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。・・・」68)あなたは、朝には、『ああ夕方であれば良いのに』と言い、夕方には、『ああ朝であればよいのに』という。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。」

➡この28:64のことばは、バビロンによる攻撃の時というより、ローマの攻撃にふさわしい。バビロン時代はバビロンに捕囚されたが、ローマの攻撃の際は、全世界に売り飛ばされ、又、逃げた。さらに、68節のことばはナチスドイツの時のものと言われる。アンネの日記にこのことばが書かれているそうである。だから、モーセの預言は、次のイエス様の預言とかなさり、3500年の年月を飛び越えて、現代に続いているから驚きである。

2)旧約から継続する新約の預言

●聖書の真実性、驚くべき事は、私たちの確認しづらい旧約時代の歴史的な事件に関する預言だけでなく、20世紀の、「第二次世界大戦直後のイスラエル国家再建という驚くべきこと」が、こうして3500年前のモーセの預言と、更にその1500年後の紀元30年にイエス様ご自身が話され、その40年後の紀元70年に「ローマの襲撃とイスラエルの滅亡と世界への離散」というかたちで実現し、その上、約1900年後の西暦1945年の世界大戦終結と、その後の1948年の「イスラエル国家再建」という事を見せられたことである。

②イエス様の預言

*ルカ21章20-24節(P.161)「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近いことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。・・・人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ異邦人の時の終わるまでエルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」

 実は、この20-24節のイエス様ご自身の預言は、私(大寺)にとって、聖書預言の真実性を教える最も重要な箇所だった。そもそも、この預言は、さらに1500年前のモーセのことばと同じであり、しかも、イエス様が語られてからわずか40年後に、その通り実現し、しかも、エルサレムは異邦人の町になって、約1900年間戻ることが赦されなかった。それは、彼らからすると「異邦人に踏み荒らされていた」訳であるが、第二次世界大戦後に国連でイスラエルの再建が決まって、彼らが祖国を取り戻したと言うことは、「異邦人の時が終わった」ということとなる。

 ➡それは、祖国の復帰だけで終わる預言ではなく、キリスト再臨の預言に続くものであるから(25-28節)「キリストによる最後の審判=救いと裁きの完成」が間違いないことを証明する。それは他人事ではなく、全人類の将来に関する重大なことばである。つまり、イスラエルの祖国の回復と言うことは、キリストの再臨=最後の審判につながる。

二、新約時代のイスラエル=流浪の民

1)流浪の民として生き延びた二千年:

●ここで、皆さん、想像してみて欲しい。例えば、日本人が全員国外に追放されて、帰国すると殺されるという「流浪の民」となった場合にどう生きるだろうか?それも5年10年でなく二千年近くである。

●おそらく他の民族なら、消滅していただろうと思う。行った先の国に同化して、息子や娘は現地の人と結婚する。そして、自分の先祖が日本人であったかも忘れてしまう。こういうことはよくあることであり、歴史上、多くの民族はそうして消えていった。(ブラジル人のことを聞く機会があったが、彼らは、4や5カ国の混血は普通だという)

●しかしイスラエル民族だけはそうならなかった。しかも、彼らは「迫害」を受け続けたにもかかわらず、民族のアイデンティティーを失わなかった。その理由は、「自分たちは主に撰ばれた民である」との誇りと、「主の救いを待つ信仰」から出たのであろう。又、裁きの預言のあとに、次のような「再び集める」との主の約束があったからでもある。

*申命記30:1-4「・・・あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、わたしがあなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。・・・」

●そもそも、民族全体に、「私たちは主に撰ばれた民族だ」との教えがあり、それが受け継がれていたから、平素から家庭やシナゴーグ(礼拝所)でそれが語り続けられてきた。それを無視して罪に走ることもあったが、苦難のときは原点に戻り、悔い改めて、聖書の教えに戻り、教師(ラビ)や親たちが子に教え続けて、二千年間も受け継がれてきたのである。➡これは、世界の歴史を見ても、他ではあり得ない奇跡的なことであった!

2)世界中での「迫害」、特に欧米キリスト教世界からの迫害=置き換え理論:

●世界中に離散する運命になった時にどうするだろうか、これをもう一度考えて欲しい。日本人なら、あなたならどうするだろうか?

●まず、90%以上の人は、日本人どうしで集まって暮らすだろう。ことば、仕事、学校=子ども教育すべてに、ひとりでは不安であるからだ。現代なら、エリートとして海外勤務になれば、単身とか家族単位で数年間暮らすこともあろうが、それでも、海外生活で永住となると、子どもの教育や結婚などは困難で、日本人同士で集まるのはごく自然である。

●以前、バルセロナの街に行ったとき、「旧市街」に行くと、石造りの町で、自動車も入れないほどの狭い道路であった。街全体の3分の一ほどが旧ユダヤ人街だったが、150年ほど前に、それまで続いたユダヤ人の生活は一気に破壊され、ユダヤ人は一ヶ月以内に全員国外に退去せよという追放命令がなされたと聞いた。その時の彼らの心情を思うと本当に気の毒である。約1700年もかけて築いてきたコミュニティーが一瞬に破壊されたのである。

●しかも、イスラエル人は、「キリストを殺したユダヤ人」として嫌われていて、今で言う「ヘイト=ユダヤ人差別」をする人たちの攻撃を受けた。それだけでなく、キリスト教会でも、イスラエル人を嫌い、受け入れない雰囲気が強かった。また、聖書の解釈に当たって、イスラエル、ユダヤ人への祝福は、「キリスト教会」に置き換えられたとの解釈がなされるようになった。クリスチャン=教会だけに創造主の祝福が与えられるという「イスラエル切り捨ての神学」である。それは、日本に伝えられた欧米のキリスト教に顕著であった。それは、聖書の創造を進化論と置き換える、創造に関する置き換え理論と同じで聖書の根本的な真理を否定するものである

●この重要な問題を、ローマ書11章はどう言っているだろうか?

三、主のご計画とは?*ローマ11章)

1)イスラエルと異邦人。異邦人教会は接ぎ木された存在に過ぎない

①主はご自分の民(イスラエル)を退けてしまわれたのですか?*1)➡絶対にそれはない

(エリヤが訴えたときに、神はなんと言われたか)「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」*5)

③彼ら(イスラエル)がつまずいたのは倒れるためなのでしょうか?*11)

➡「絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それはイスラエルにねたみを起こさせるためです。」

➡「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」*12)

●つまり、彼らの失敗(イエス様を一度拒否)したことで、救いが世界に広げられた。しかし、今後彼らが完成するときが来ると主は約束されている。

④あなた方、異邦人は「野生種のオリーブ」にすぎない。*17)

 枝の一部が折られて、野生種のオリーブであるあなたが継がれ、オリーブの根の豊かな養分を受けているのだから、その枝に対して誇ってはいけません。*17-18)

「高ぶらないで、かえって恐れなさい。*20)神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたも惜しまれないでしょう。」

⑤「あなた(異邦人)の上にあるのはいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされます。」*22)

2)イスラエルがかたくなにされた意図=主の奥義*25-36)

●パウロは、最後に重要な「奥義」を語る。驚くべき内容である。それは、「異邦人が、自分を賢いと思うことがないように」とするためだと言われる。

①イスラエル人の一部がかたくなになった(主を拒否した)のは、「異邦人の完成のなる時まで」である。~こうして、イスラエルはみな救われる~*25-26)

②彼ら(イスラエル)は、あなたがたのゆえに、神に敵対しているが、父祖たちのゆえに愛されている者。*28)

③彼らは今は不従順になっているが、(あなたがたが受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるため。*31)

④神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた。*32)

➡「ああ、神の知恵と知識との富は、なんと底知れず深いことでしょう。そのさばきは、なんと知り尽くしがたく、その道は、なんと測り知りがたいことでしょう!!!

●私たち異邦人は、イスラエルに対して、決して誇ってはならず、彼らを否定し、退けてはいけない。迫害するなどもってのほかである。

●幸い、歴史上、日本人は彼らを迫害したことがないので、日本人は特別良い関係だと聞くから、特にBFPなどの働きを大切にし、支援していきたいと思う。

●祈り

4月7日礼拝後の愛餐会:青年二人の国家試験合格のお祝い会です。

礼拝説教原稿―B-①2019.4.7聖書箇所:ローマ4章16-25節

                        泉南聖書教会 大寺俊紀

「信仰とは」

―望み得ないときに望みを抱いて信じること―」

はじめに:私の説教の計画・方針は、年間聖書通読の表に沿って行うことであるが、ご存じの通り、旧約と新約を同時に通読していて,新旧のどちらを説教するかは,そのときの聖書箇所によって決めている。通常、旧約の場合、創世記からのモーセ五書や詩編などの文学書,歴史書は取り上げることが多いが、その中にも,新約も挟んでいる。又、その後の預言書の場合、イザヤ書、ダニエル書などは福音的な内容が多いので多く取り上げるが、エレミヤ書やエゼキエル書などは、旧約時代のイスラエルや周辺諸国への裁きの記述があまりにも長く続くので、一,二回のみにして殆ど説教には取り上げない。今回も、同じ理由で新約のローマ書が二度続くこととなる。

一、律法と信仰による行い

1)キリストによる救い*1-3章)

●ローマ書4章をお話しするには、どうしても1-3章の概略が必要である。ローマ書の記者パウロは、1;1で、「神の福音のために撰び分けられ,使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、」と言うことばで始めている。

●パウロは,キリスト存命中にしもべ、使途,弟子とされた者ではない。キリストが十字架刑に処せられ,復活して,天に上られ,その後聖霊が下って使徒達が宣教を始め、クリスチャンがどんどん増えて,勢いを増していったとき、それを妬み、阻止しようとして逮捕、投獄していたユダヤ教のグループ(過激派)の先頭に立っていたのがパウロだった。

●ところが,クリスチャン迫害のために、彼が馬に乗って今のシリアのダマスコというところに来たとき,強烈な光と雷鳴のような声があり、パウロは馬から地面にたたき落とされ,目も見えなくなったとき、(周囲の人々には雷鳴としか聞こえなかったらしいが)「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」との、はっきりとしたキリストの呼びかける声があった。(使途の働きP.244)彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とあり、その後の指示もあった。

➡こうしてパウロ(当時はサウロ)はキリストを伝える者(=特に異邦人に)とされた。

●直接キリストから召し出されたパウロは、「あらゆる国の人々にキリストを伝える使命」を受けたが、元々イスラエル人で、熱心な宗教家だったパウロは、このローマ書の中で、イスラエルと異邦人(全人類)の救いの問題と、その関係を整理している。

●1章では、25節で、「造り主の代わりに造られた物を拝み、仕えることが最大の罪である」ことを宣言している。

2)創造主にえこひいきはない*2章)

●次の2章では、ユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の全人類)との関係に入る。

元々は、ユダヤ人は,「自分たちだけが神に選ばれた民族である=自分たちだけに律法が与えられている」との誇りを持っていた。

●しかし、パウロは「創造主なる神にえこひいきはない」と教える。

「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」*13)とあるが、それは、律法(創造主が求める人間の生き方の基本=十戒と律法)は、イスラエル民族の祖となったアブラハム、そして後のモーセを通してユダヤ民族に与えられたが、それはユダヤ民族だけの律法ではなく,全人類に与えられたものである。

 また、それを聞くだけ,あるいは知識として知っているだけでは意味がなく,その教えを行う者が正しいとされるのであり、律法を聞いていない異邦人でも,それを行っていれば正しいと認められるものである。(2:13)

●神の裁きはキリストによってなされる:*2:16)

 パウロは、「神の裁きは,神がキリスト・イエスによって、・・・裁かれる日に行われるのです。」とある。2:16)それは、不公平ではなく,異邦人が主の律法に沿って歩むなら主に喜ばれ,反対に、ユダヤ人でも、律法を持つことに安んじ,それを行わないで罪を犯すなら裁かれることとなる。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではない」と28節で警告している。

 ユダヤ人には「割礼を受ける」宗教行為がなされているが、からだの割礼が割礼ではなく、心の割礼=へりくだりが真の割礼である,主に従うしるしであると教える。

3)「イスラエル人」の優れているところ*3章)

●1,2章で、ユダヤ人に対しての厳しことばを書いたので、3章では,彼らの誤解や怒りを受けないように配慮して、「では,ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。」1)と書き始める。

 ①一つは、彼らには神のことばが委ねられていることである。(2節)旧約聖書の記者は全てユダヤ人であり、キリストご自身もユダヤ人である。新訳聖書も(この時点では全て完結していないが)ルカ伝、使途の働き以外は全てユダヤ人による。つまり、全人類の救いは,ユダヤ人を通して,語られ,備えられているのである。

 その「ユダヤ人に対して」は、彼らからキリストが来るのだが,それまでは,律法や割礼を通して,神の民としてふさわしい生き方をするようにと訓練されてきた。又、礼拝そのものも教えられてきた。しかし、彼らはそれらを充分守ることが出来ず、2章後半にあるように、自分勝手に解釈して律法をねじ曲げてきた。だから、律法を持っているだけで行わないユダヤ人は、「失格」となると厳しいことばを掛けられている。

 そして、ユダヤ人に不真実があるからと言って、その不真実によって神の真実が無に帰することはないとも言われている。

②二つ目は、と書こうとしたが、パウロはユダヤ人の優れたところの二つ目は何も書いていない。そして、9節では、「私たちは=ユダヤ人は,他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。」とあり、「ユダヤ人もギリシャ人も、すべてのひとが罪の下にある」9)と書いている。それは、聖書の次のことばによる。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。・・・」10-18節)それは詩編14篇の言葉を引用したものである。

4)「全ての人が罪の下にいる」20-)

●大事なことはユダヤ人かどうかではない、律法を与えられているかどうかでもない。「全ての人は罪の下にいる」ということであり、罪には裁きがあると言うことでもある。

●律法があっても、それを行っても,人には尚罪があり、「だれひとり神の前に義=完全に正しい=と認められる人はいないからです。」20)とある。

➡だから、次の結論に導かれる。3:23-24)

「すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることが出来ず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに,価なしに義と認められるのです。」

二、アブラハムの場合*4章)

1)何故、罪があるというのか?*3章)

●3章23節で、「全ての人は、罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず、」とあったが、そのことは、ローマ書1章に書かれていた。

「最大の罪」は創造主を認めないことである。天地万物は,偶然に出来たものではない。私たち自身のいのちも、家族も、空気や水や食べ物も、全て偶然にあるものではなく,創造主によって造られたものである。私たちのいのちは,自分で生きているのでなく,生かされているのである。父や母は,全てを計算し、設計して子どもを作ったのではない。細胞のことも血管のことも,脳のことも何も知らなくても,母の体内で組み立てられて作られたのである。

 にもかかわらず、同じ被造物に過ぎない,死すべき先祖(人間)を神として礼拝してきた。それは、創造主の怒りを受ける最大の偶像礼拝の罪である。又、神社に行っても手を合わせてきた。神社は、大抵は動物や人間を奉ってある。天神さんは菅原道真を奉り、各地の神社は昔の人や動物を奉ってある。それは、人類が昔から行ってきた罪である。

 さらに、自分を誇る,他人を裁く,悪口、そねみ、ねたみなど人の心とことばの罪は一切ないと言える完全な人はいないはずである。

●何故、キリストの救いなのか(詳しくは後述)

 全ての人が罪を犯した・・・しかし、その罪を許すために地上に来て下さったのがイエス様である。そのことを信じることが出来るように、聖書は何千年も前からその生涯を細かく預言し,全て書かれたとおりに来て下さり、私たちが罪によって裁かれる、その身代わりに罪の刑罰を受けて下さったのが十字架である。だから、それを信じるものは赦される。そして永遠に生きておられる創造主のいのちを受けるのである。

2)アブラハムの選び=彼は信仰者の父とされている。*4:1)

●4章1節にある「アブラハム」という方は誰か:

●彼は、ユダヤ教、キリスト教、さらにイスラム教でも「信仰の父」とされている人。

彼はノアの洪水後の中東,ユーフラテス河流域の古代文明の街に住んでいたが、創造主から声をかけられた。主は、彼の信仰が良いことを見ておられた。当時の文明の遺跡を調べると、「あらゆる偶像礼拝」に満ちていた。しかし、かれはその中にあって,人間は偶像礼拝をしてはいけないと気づいていて、それを嫌っていたらしい。

 そこで、主は彼に声をかけて、「ここから出て,わたしが示す土地に行きなさい」と言われ,彼はすぐに従ったのである。アブラハムは,どこに行くかも知らないで,従ったが、約束された地はカナンの地=イスラエルの地だった。

●ことばを信じて従った彼に与えられた約束とは、①地上の全ての民族はあなたによって祝福される。(創世記12:3)②あなたの子孫にこのカナンの地を与える。(同12:7)②あなたの子孫は空の星のように増える。(15:5)③あなたのひとりの子孫によって、全人類が祝福を受ける。(17:8)④自分の国でない国で(エジプト)奴隷となるが,400年後に連れ戻される(15章)、であった。

3)アブラハムの試練

●彼が受けた約束は,試練も伴っていた。そもそもアブラハムがカルデヤのウルを出たのが75才の時、妻サライ(後のサラ)は10才下で不妊の人だった。だから、信じ続けることは困難だったが、彼が99才になったときに御使いが訪れて、来年長男が生まれることを約束した。そして100才まで待って長子イサクが誕生、約束が成就した。

●ところが、息子イサクが青年に成長したとき、次の試練があった。(創世記22章)

「あなたの愛しているひとり子イサクを連れてモリヤの地に来なさい」「わたしが示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」というものだった。(22:2)

➡アブラハムはそのことばに従い、薪を積んでイサクを乗せ、縛り,刀を取って屠ろうとした。しかし、その時御使いの声があり、「わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは,自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」として、身代わりの羊を与え,イサクのいのちを助けた。

アブラハムは,たとえ、ひとり息子をささげても、主がもう一度いのちを与えて下さることを=復活のいのち=信じていたと言われる。

三、復活の主を信じる信仰が義とされる*4:24-25)

1)信仰による義*4:1-15)

●今日の聖書箇所、4:15-25節は,1節からの「信仰による救い=義」を受けて書かれている。

まず、「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた』とある。ここでは、最初に主の声があり,「ここを出てわたしが示す地へ行きなさい。わたしはあなたを大いなるものとしよう」との創世記12章、15章のことを指している。彼は,主の声を聞き、その約束を信じ、それを「行動」に移した。

●彼の生きている時代は殆どが偶像礼拝だったが、そのことに疑問を持って従っていないことを主は見ておられたのであろう。

2)「望み得ない時に望みを抱いて信じる信仰」*18)

彼が信じたのは一度だけ,少しだけと言うことでなく,75才から99才まで続いた。99才では、「もう子どもが生まれる可能性はない」―望み得ない―。にもかかわらず信じ続けたことが大事である。

19節にもそのことが書かれている。夫99才、妻90才では、約束とは言え、こどもを望むことは無理だったにもかかわらず,信じ続けたとある。

さらに、折角与えられた長子イサクが青年になったときに「いけにえとして屠れ」と言われても従った。17節にある「死者を生かし,無いものを有るもののようにお呼びになる方」=死んでも、尚、復活させて下さると信じていたから=というその信仰によって義とされたのである。同時に、この時も、「主のことばに従うという行動」があった。信じますと言って,実際は行かないということではなかった。

●だから、主を信じる者が世界の相続人になる、というのは、このアブラハムに与えられた約束を,同じ信仰者が受けると言うことである。23、24節にある通り、それはアブラハムのためだけのものでなく、私たちのためです。」とあるとおりである。

3)よみがえられた主イエス*25)

●4章25節には,「イエス様の復活」が宣言されている。

「私たちが義と認められるために,よみがえられたからです。」とある。

私たちは,信仰を持つ前までは、自分の判断、価値基準だけで生きてきた。しかし、それでは罪がある。義とされるには不十分である。その証拠に,今の地球では、誰ひとり120才を過ぎて生きる人はいない。

しかし、永遠に生きておられる創造者は、わたしたちを愛して下さっている。私たちが完全に正しい者―義なる者とされるために、身代わりに死に渡され(死んで下さり)そして、復活されることによって、信じる者を赦される道を備えて下さったのである。そして、信じる者は,復活のいのちを受け、死のない世界に入れられる。

 このことを是非,今年の復活祭でしっかり信じて,イエス様の救いを受けて下さることをお勧めしたい。

●祈り �7Q@�F��/�ggV

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