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礼拝説教原稿 2019.3.24 マタイ18章1-14

「神の国で一番偉い者」-決してつまずかない、つまずきを与えない-

初めに:今週は、当初は、後半部分(21-35節)をお話しする予定であったが、1節からの「天国ではだれが一番偉いか」というテーマで思いとことばが与えられ、導かれてまとまったので、後半は後日にすることとした。

一、教会にこんな方がいる

1)ある教会でのこと

●ある女性のFBコメントです。驚くような内容ですが、同様のことが他にもあると、このコメントに対して投稿されている人が複数います。

「今日はいろんなことがあった日でした。まず教会でのこと。
私の集っている教会の牧師が86歳になって、今日で引退することになりました。そして新しくいらして下さった牧師は神学校を卒業したての21歳の方です。今日は旧牧師の送別会と新牧師の歓迎会でした。引退する牧師は60代の時に奥様を亡くされ、お子さん達は独立されていてお一人なので、ご遠方の施設に入所されます。寂しくなります。

お食事をご用意下さったご婦人の方々、感謝なことでした。お近く(キッチン)に行って、お一人の方とお話ししていたら、「おしゃべりするならあっちいって!ここはご奉仕するところ、おしゃべりするところじゃないの!」と70代の方に言われ(◎_◎;)お手伝いしようと思いましたが、お邪魔をしてもいけないし、どうしようかしらと思っていた時、話かけて下さった方がおられたので、応対していた矢先の出来事に言葉を失いました。この方、1年程前に礼拝の時に、いきなり、「これからは自分の家で礼拝するから今日でもう最後。来ないから」そうおっしゃって出て行かれた方でした。でもイベントの時や、宣教師が来る時など、時々来て下さり、奏楽もして下さいました。

牧師が変わることになり、またいらして下さるようになって、いらして下さるのですね、と喜んでお尋ねしたら「ああ?それが何よ!気が変わったんだよ!」とすごまれ、この時も言葉を失いました。

回りにこういう言葉使いをする人がいないので、どう受け答えしたらよいのかわからず・・・礼拝中にいきなり、あんたこれ弾く?と言われ、「あ、はい、もし間違えたらごめんなさい」と言ってピアノに近づいたら「ああーもーいいよ。あたしがするから!」と手で追っ払われてしまいました(^_^;)

ご主人もいつも恫喝されていて、そもそも教会で怒鳴る人をあまり見ないので、いつまで経っても慣れません。今日はいろんなことがあって、消耗してしまいました。」

 続編です。

「先生、お忙しいのにお言葉をありがとうございます。
実は教会の珍事は今に始まったことではなく、教会に行き始めてから、いろいろな方がおられることを知りました。牧師を怒鳴りつけるご婦人、献金を回ってきた籠から抜き取る信徒、礼拝途中に牧師と喧嘩して出ていった方、本が一冊かけそうです。
ある方がおっしゃいました。教会は罪人の集まりだと。私もその一人として日夜練られております💦昨日のドーベルマンちゃんは、根は悪い方ではないように思うのです。ただ自分の周りには本当にいないタイプの方で、やはり驚いてしまいました。・・・」
●本当に残念なことに、時々驚くようなことが起こる。

  • わたしが洗礼を受ける前に、ある日の礼拝で、初来会された方が、礼拝後に紹介されると、「何故ここに来たか」という経緯を説明し始めて、今まで行っていた教会の牧師を興奮して大声で非難し始めた。「後で伺いますから」と、牧師が静止して治まったが、同様のことは時々起きる。大阪市内のある教会では、集まっている多くの男性が、元の教会からの「転出許可書」が送って貰えないと聞いた。

➡(母教会を除名されているらしい。トラブルがあったと思える。)

その教会では、各地の教会でトラブルがあった人が多く集まっている様子。(その教会の元牧師による)教会キャンプでは、ウイスキーやお酒が何本も持ち込まれ、一晩中宴会になるそうで、毎週の祈り会の後は大勢で居酒屋に行くと聞いた。そこに原因があると推測できる。

(2)私が経験した最大の罪は、ある夫婦が牧師を非難し続けて約20年、最後は、牧師の病気と教会の解散=会堂の売却となったことは何度か話したが、その背後には話せないような、権力争いや金銭的な罪が根底にあるのだろう。

2)何故、こんな罪が起きるのか?*マタイ18章1-14)

●なぜ、こんな罪が起こるのだろうか?

①一つはサタンの攻撃。サタンが人をそそのかして、罪を犯させる。対立し、分裂して、教会を崩壊させる。そのために、教会に来る人の心に怒りや誇り、憎しみ、高慢の思いを与える。それを見て、失望して教会を離れる人が出ることもサタンの狙いの一つ。~これが「つまずかせる」と言うこと。大声で他人を批判する。自己主張を続ける。それで、いつの間にか、自分が群れの中の中心人物となることを狙ってくるという人もあるだろう。

又、自分には向かない活動だからと、黙って委ねるのでなく反対し続ける。=上手くいかないと、自分の主張が正しかったと自己満足できるのかもしれない。

最大の罪は、「教会内で、自分が支配できる体制をつくる」=「自分が一番偉いと皆が認めるそれが目的になる。つまり、18章1節「誰が一番偉いのですか」という質問をすることは、それは、「自分が弟子の中で一番偉いと言われたい、皆の上に立って支配したい」との心が、一様に強いということを示している。

●最初に紹介した記事の女性も、自分のピアノ演奏はこの姉妹よりも上だと思い、夫よりも、又、牧師よりも上だという思いがどこかにあるのだろう。それを声に出す人は少ないが、移って行った教会で本音が出てしまう場合もあり、中には、周囲の人にそれを示そうとし、何かにつけて牧師批判をして、自分に従って行動するように支配したい人がいると、教会内で派閥を作り、皆を配下の人間として従わせようとする。

●この会堂が出来たころ、大きな課題があったので、家族全員を当教会がお世話をし、信仰を受け、洗礼も受けながら、引き抜かれて親子で転会した女性がいたが、彼女は後日、午後に時々皆に会いに来ていたが、それは、「皆を引き抜くためだった」と後にわかった。それに従って行けば、行った人は、皆その人の弟子(家来)になり、教会内の争いの一兵卒にさせられてしまう。

➡当事者は7,8年前に亡くなり、その教会も昨年派閥争いで解体してしまったから、何がよいことか悪いことかの見本のようなものである。

3)私が最初から「心に決めていること」=参考にして下さい!

●皆さんに是非お勧めしたいことは、これらのことに関して、次のことを常に心に決めておいてほしいということである。➡それは、

①罪の誘いには決して乗らない。=誰かを非難する行動や、派閥的行動で誰かに人間的に従うことをしない。(サタンの支配下に陥る)

②誰かが攻撃してくる、とんでもないことが起きる、教会内でありえない様なことが起きる・・色々あっても、決してつまずかないと決めておく。そのことで教会や主を疑うことをしない。(罪を犯した人は主が裁かれるからと委ねる。)

 特に、②の自分は不信仰にならない、躓かないという事を決めておくと、何を見ても、何を聞いても、「主が全てをご存じだから」と主に委ねることが出来る。自分は巻き込まれない、悪い群れに加わらない。酷いことがあっても、主が裁かれるし、悔い改めれば主が赦されるからである。

二、小さい者になる*18:14)

1)子どものようにならないかぎり・・・

●弟子たちの質問に対して、イエス様は、子どもを皆の前に立たせて言われた。「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」3-4)

●この後、主は、「この小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」とまで言われている。6)それほど、つまずきを与えるものは主の怒りを受けるのである。

●7節からも「つまずきを与えるものはわざわいだ」と主が言われているが、8節からは、あなたの右の手か足かがつまずきを与えるのなら、「それを切って捨てなさい」と言われ、両手両足を揃っていて永遠の火に投げ入れられるよりましだとまで言われている。

*10年程前に見たイタリア映画:ある美男子の修道僧が、アルプスの山にある小さい修道院で、一人で修業している処に、飛び切りの美人で、大金持ちの婦人が、男女のしもべを連れてそこに押しかけ、夕方にはしもべを全員去らせ、二人きりになるという行動を取ったのだが、困った修道僧は、なたで方手を切り落として女性の前に現れた。(実際は、大出血で男性は死亡すると思うが)それを見た女性はショックを受け、罪を知り、その後修道院の尼僧になった、という映画であったが、このイエス様のことばを映画化した作品。

●10節には、「この小さい者たちをひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに言います。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」と言われている。(これは後述する)

 ➡これほど、小さい者になること、決してそしらず、自分を誇る者にならないことの大切さを教えて下さっている。

➡皆さんのご存じの伝道師は、約20年近く、大変な迫害を受けられたが、彼は、それが自分には良かったと言っておられる。理由は、「自分には高慢なところがあるから、どうにもならない苦しみの中で全てを主に委ねることが出来た。そして高慢にならないことを教えられた。」である。

●私も同じように思っている。わたしのFBの自己紹介にはこう書いている。

「自己紹介

私は、辺境の地の、単線の駅の駅員件草取りもトイレ掃除もする駅長のような者だと思います。それでも、少し大事な役割がある。健康で時間があるから絵が描ける。高慢の罪を犯す必要がない。このことが恵みです。」

最後の「高慢の罪を犯す必要がない」…これが鍵だと思っている。成功(?)して(有名になって)高慢になる人、牧師をたくさん見ているので、一番大事だと思っている。

 ある牧師は、この自己紹介文を見て、「泉南は、日本全体から見れば田舎ではないですよ。地方にはもっと田舎があります。」と言われた、泉南には映画館(シネコン)や空港、高速道路もあり、過疎地でないことは勿論わかっているが、私にとっては、「パリやニューヨークに行く計画を立てていた」のに、この地に引き戻されたから、この地は田舎=辺境の地との思いがある。

 以前、夕拝を含めて約20人いたが、現在は10人前後となっている。しかし、決して悲観していない。「主がそうされた」と思っている。そして、主は私たちに愛と知恵と力と熱意を与え、「決して誇らない」「罪を犯さない」小さい人になり、本物の信仰者に一人一人を変えてくださり、守ってくださると信じている。

三、小さい者への主の愛*10-14)

1)「彼らの天の御使いたち」*10)

●イエス様が「この子どものように」と言われる、小さい者を大事にされることばは徹底している。5節では「このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と言われ、6節でも、「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだ方がましです。」と続く。そして、「つまずきをもたらす者はわざわいだ。」と、なる。

 ●10節からは、「彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」という驚くべきことばが出る。

 クリスチャンには「聖霊様が宿る」ということは、聖書は何度も教えているが、特に、この「小さい者」と呼ばれる聖徒には、わざわざ「彼らの天の御使いたちは、天におられる父の御顔をいつも見ている」と、父のすぐ側にいることを教えている。そのように表現されていると言うことは、注目せねばならない。

 ●この話の時、イエス様は子どもを側に引き寄せて言われたが、我々大人も、老人でも、小さい者になることはいつでも可能である。それは、本当に心から自分を誇らない者、へりくだって小さい者となることであり、本当は年齢とは関係ないのだが、残念ながら、人には年齢や経験を増すごとに高慢になり、「大きくなろう、大きく見せよう」とするところがある。それは、ことばや態度ではっきり見えてくる。「相手を押さえつけるような強いことばで話す」、或いは「牧師に対してでも嘲笑するようなことばを出す」ことによって自分を満足させる。「小さい者」の反対である。チンピラや半グレ、偉そうにする者ほど、実際は自信がなく、気が弱く、我慢が出来ない者が多いと聞く。「弱いからこそ強がっている」と言えよう。

2)「小さい者のひとりでも滅びることは父の御心でない」*14)

●14節のこのことばは大事である。決して自分を誇らず、黙って信仰によって歩んでいるそういうクリスチャンは、何も目立たなくても、主はよくご存じであり、滅びることを望んでおられない。だから、小さい者を巻き込んで、一緒に罪を犯させよう、つまずかせようとする者は主の大きい怒りを受ける。「小さい者のひとりでも滅びることは父の御心でない」だから、教会内で混乱を起こすとか、罪に誘ってつまずきを与えてはいけない。

 そのような者への主の怒りは大きい。

3)私たちが「小さい者に」ならなければいけない

●最後に確認したいことは、「私たち自身が小さい者」とならなければならない、ということである。先ほど一度触れたが、フェイスブックの自己紹介の記事は、本心である。

「私は、辺境の地の、単線の駅の駅員件草取りもトイレ掃除もする駅長のような者だと思います。それでも、少し大事な役割がある。健康で時間があるから絵が描ける。高慢の罪を犯す必要がない。このことが恵みです。」

●私たちひとりひとりが、幼子のようにへりくだり、小さくなり、決して自分を誇らず、教会の頭であるキリストを誇り、主が建ててくださっている指導者に従う-勿論牧師も主に従い、誰も支配しない-このことがしっかり実現できているとき、必ず主は私たちを愛して、父の御顔を仰ぎ見ているという御使いを送り、技を見せてくださるということばを信じて歩みたいものである。

●祈り �種)�

信徒説教原稿  2019.0317  マタイの福音書11:7-19   泉南聖書教会 草場伸滋

「見るべきものとは」

はじめに: 11章~12章には、イエス様がメシヤ性を示しておられるのに、その力あるみわざを目の当たりにしているのに、悔い改めようとはしなかった人たちの反応や態度について書いてある。このような頑なな人たちのことを、ヨハネは次のように表現している。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハ1:10-11)」

すなわち、私たち人間は、見るべきものをしっかりと見ていない、しっかりと見ない、といった過ちを起こしやすいということである。イエス様は、聖書のいろんな場面を通して、「わたしにつまずかないようにしなさい」と、諭しておられる。今日はこれらのことを念頭に置いて、*マタ11:7-19)から「見るべきものとは」について学びたいと思う。

一、何を見るのか(11:7-11)

1.バプテスマのヨハネ

●本題に入る前に、*11:2)を見ると、「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、・・・」と、あるように、ヨハネは獄中にある。どうして捕らわれの身になったのかというと、ユダヤの国主ヘロデが、自分の兄弟であるピリポの妻(ヘロデヤ)を奪って妻としたことを、ヨハネに不法だと強く非難されたため、彼を捕らえて牢に入れたのであった(14:3-4)。その後まもなく、ヨハネは牢の中で処刑されてしまう(14:10)。

●先程読んで頂いた聖書箇所には、このヨハネについてイエス様が、ご自分のもとに集まっていた群衆に向かって語っておられる物語の重要な一場面でもあるので、今は捕らわれの身にあるヨハネが、実はどういう人であったのか、少し触れておきたい。既にご存知の方が多いが、大事なことなので敢えて少し触れておきたいと思う。

*3:1-2)に「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」とある。では、「そのころ」とは何を指すのだろうか、それは、イエス様によって「罪人の救済」が正に始まろうとしていたころである。そのことを見ていきたい。

1)イエス様は、ユダヤのベツレヘムでお生まれになり(2:1)、ヨセフとマリヤの故郷であるナザレという町に両親と共に住まわれ、お育ちになった(ルカ2:39)。

⇒「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。(ルカ2:40)」

⇒「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)」

2)こうしてイエス様が成人なされた頃の政治情勢は、「・・・ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、・・・」という情勢にあった。そのころのできごとである、

⇒「・・・神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。(ルカ3:2)」

「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。(マタ3:3)」

3)このヨハネの精力的な活動によって、「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。(3:5-6)」のであった。

このように、大勢の人たちから熱く支持されるようになったヨハネであったが、彼は少しも自分を誇ることは無かった。

⇒『私は、あなたがたが悔い改めるたに、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。・・・(マタ3:11)」

⇒「その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。(マコ1:8)」

4)ヨハネに与えられた任務は、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」であった(3:3)。即ち、主をお迎えするのに相応しい環境を整えることであった。

⇒「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。(使13:23)」

⇒「この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。(使13:24)」

このヨハネのバプテスマは、使徒的宣教の出発点でもあるが、預言者として、イエス様の働きの前触れをする働きとなったのであった。

⇒「兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。

この救いのことばは、私たちに送られているのです。(使13:26)」

2.何を見にいったのですか(11:7-9A)

●さて本題に戻るが、*11:7-8)に次のようにある。

⇒「・・・イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。(11:7)」

⇒「でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。(11:8)」

⇒「でなかったら、なぜいったのですか。・・・(11:9A)」

先ほど触れたように、今のヨハネは、獄中で捕らわれの身となっているが、かつてはユダヤの荒野で、悔い改めのバプテスマを説いて、精力的に活動していた。その甲斐あって、悔い改めを説くヨハネの活動は、エルサレムやユダヤの至る所で評判となり、噂を聞いた人々は、はるばる荒野へと出向き、ヨハネを見に行ったのであった。

●この行為を捉えて、イエス様が群衆に問いかけられたのがこの場面である。

「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。」「風に揺れる葦」のように骨のない人間ですか。それとも「柔らかい着物を着た」王宮にいる人ですか。「でなかったら、なぜいったのですか。」、このように問いかけることによって、ヨハネを讃えると共に、私たちに興味本位であったり、噂に惑わされたりせずに、見るべきもの(=本質)を正しく見るように行動しなさいと、励ましておられるのだと思う。

3.預言者よりもすぐれた者(11:9B-10)

●では、ヨハネを見に行った人々は、何を見たのだろうか。イエス様は次のように言っておられる。

⇒「・・・預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。(11:9B)」

あなた方は、預言者を一目見るために荒野へ出かけて行ったのかも知れないが、実は預言者よりもすぐれた者を見たのだ。

⇒「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。(11:10)」。

と言っておられる。このことを少し見ていきたい。

このことを書いてあるのは旧約聖書で、マラキ書、イザヤ書にある預言のことばである。

1)マラキ書:この書簡には、創造主のみことばが記録されている。=「宣告。マラキを通してイスラエルにあった主(創造主)のことば。(マラ1:1)」

*3:1)にある預言=「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。・・・」

2)イザヤ書:この書は、旧約聖書の中でも典型的な預言書だと言われている。

*40:3)にある預言=「荒野に呼ばわる者の声がする。『主(創造主)の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。』」

3)そして、今日の聖書箇所を少し遡って*3:3)を見ると、マタイがヨハネについて、次のように証言している。

⇒「この人(=ヨハネ)は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。」即ち、ヨハネは「主に遣わされた、主の道を整える」者であった。その具体的な活動は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。(*3:2)」との宣教と、改心した人へのバプテスマであった。彼は、今は牢にあるが、旧約の時代から預言されていたことを、実行した偉大な人なのである。

二、見るべきもの(11:12-19)

1.天の御国(11:12)

●このヨハネの働きを、イエス様は大きく讃えておられる。

⇒「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(11:12)」

即ち、大勢の人々がバプテスマのヨハネに心から応答して、迫害の激しさを乗り越えてイエス様を信じるようになった。イエス様を信じた彼らは、「激しく攻める者たち」のように、熱心に神の国を求め、まるで「それを奪い取って」いるかのように、大勢の人たちが天の御国に入って来ているのだと、讃えておられる。

故に、私たちが「見るべきもの」とは、天の御国のことである。だから、私たちも、一生懸命に、イエス様に従って行きたいものである。

2.その行い(11:18-19)

●イエス様は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。」と讃えておられるが、もう一方では、いまだに改心しない者たちがあることを憂いて、「耳のある者は聞きなさい。(11:15)」と、厳しく諭しておられる。

⇒「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、(11:18)」⇒「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。(11:19)」

この人たち(=イエス様の憂いの種)は、ヨハネが来た時には、食べたり飲んだりしない事を批判し、イエス様が来られた時には、食べたり飲んだりされた事を批判している。この人たちは、どっちを取っても、屁理屈を言って否定してくる。

いつの時代も頑なな人たちの言い分は、この通りだと思う。自分たちにも似たようなところがあると思う。私たちの気持ちの中には、周囲に合わせていたい、その方が楽だという気持ちが働いて、見るべきものを見ようとせず、自分を変えないことで安心する傾向があるように思う。私たちには、こういう一面があるのだということが教えられる。この事を改めて認識して置きたいと思う。

●ヨハネを見て、見るべきものを見ようとしないこの人たちが、「食べも飲みもしない」と言っているように、確かに「その食べ物はいなごと野蜜であった。(3:4B)」し、通常の食事を取っていなかった。

また、イエス様は確かに「取税人や罪人といっしょに食事を」しておられる(9:11)。これも事実であった。

このように、彼らが見た事は、全部事実であった。でも、彼らが「見るべきもの」は、こんなことではなかったのだ。彼らが本当に「見るべきもの」は、「ヨハネの行動」であり、「イエス様の行動」なのである。

●ヨハネは、荒野で質素な生活をしながら、叫ぶように「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。(3:2)」と、説いていたのである。

*4:17)を見て欲しい。⇒「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」とある。

何と、イエス様もヨハネと同じことばを言って、宣教を開始されているではないか。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と。

●そして、次のみことばを噛みしめたい。

⇒「・・・医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。(9:12)」

⇒「・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(9:13)」イエス様が来臨なさったのは、このためなのである。

●「私は元気だから医者はいらない」という者は医者の元には来ない。それと同じように、「私は罪人ではないから、救いは必要ない」と言う者はイエス様のもとに来ないだろう。しかし、本当にあなたには救いは必要ないだろうか?老いや病い、死のない人はいるだろうか?今、元気であってもやがて老いる日が来るのだから、すべての人に救いが必要である。そこに気づかなければいけない。

 又、「自分は正しい人だから救いや赦しは必要ない」と自認する人も、イエス様の元に来ないだろう。しかし、「自分にも不完全な所、罪がある、罪人です。」と気づけば、イエス様に招かれていることに気づくだろう。イエス様は、あなたが、へりくだることを待っていて下さる。

私たちが見るべきものは、「神の御国、キリストの赦し、救い」なのである。「へりくだって、罪の赦しをして下さる方に近づくこと」が「神の御国」に入れて頂くための「悔い改め」なのである。その為には、礼拝に参加して聖書のことばを聞き、皆で祈り、兄弟姉妹で励まし合ったりするキリスト者としての日常の生活が、とても大切な事だと思う。

イエス様は「わたしにつまずかないようにしなさい」と教えておられる。このことばを噛みしめつつ、創造主の大いなる恵みに心より感謝を捧げたいと思う。

祈り o

礼拝説教原稿―⑧2019.3.10聖書箇所:ヨハネ黙示21章1-6+22:17泉南聖書教会 大寺俊紀

「聖書が教える希望」

―「主イエスよ来て下さい」―

初めに:今週は、予定を変更して、先週のメッセージに続き、黙示録21-22章を易しくお話しすることにした。それは、素晴らしい永遠の希望であり、受け取る=信じる者は幸いであるとお伝えしたい。(今回は、私の昨年の作品も見ながら話したい。)

一、天も地も逃げ去った…*21:1-4)

1)「新しい天と地」白い御座のさばきの前に…20:11)

●先週の白い御座のさばき―キリストによる最後の審判(ミケランジェロの最後の審判参照)が行われる際にはこう書かれてあった。

*20:11)「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」

➡千年王国の終わりに、キリストによる「最後の審判」がなされる前に、実に驚くべきことが起きる。「地も天も、創造主の御前から逃げ去る、あとかたもなくなる」とはいったいどういう事だろうか?「あとかたもなくなる」のだ。

  • 「天が逃げ去る」とは、少なくとも銀河系宇宙、太陽系銀河が消えるという事であり、それ以外の全宇宙の天体も、存在するかどうかわからない。銀河系宇宙が無くなれば、他の銀河も存在の意味がない。そもそも、地球が造られ、次に太陽、月などが置かれ、そのあとに全宇宙の天体が造られて、広がっているから、それらは、「巻かれる」ように消えるという事であろうか。そういえば、詩編には、天も滅びるであろうと書かれている。

*詩編102:25-26)「あなたははるか以前に地の基いを据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り換えられると、それらは変わってしまいます。

➡このあとの新天新地では、「もはや太陽もない」のであるから、全く宇宙も秩序も変わってしまうのは間違いない。

  • 地も変わる」=あとかたもなくなる:これは想像を超えたこととなるだろう。

地のかたちとしては、もともと地球は一つの地と一つの海だったと推測されていて、それが、ノアの洪水後に陸地がいくつかに別れ、また大陸の周辺に切り離されて島々が出来た。イ)まず、ユーラシア大陸はアメリカ大陸が切り離された。ロ)アフリカも、少し切り離されて、アフリカがヨーロッパから少し離れ、地中海が出来ている。ハ)日本なども、元々大陸と地続きだったと言われるから、そうすると、台湾やフィリピン、イギリスなども同じと考えられる。(オーストラリアは、移動した距離がかなり長い。)

  • 今後、どうされるかは何もわからないが、陸地を移動させて整理されるとか、元の一つの大陸にされるなど、色々なことが予想される。
  • 個人的な推測では、最初の一つの大陸に戻され、中央から水が流れて全土を潤すのではないだろうかと思える。それは、エゼキエル書の神殿の下からの水によって地球が回復するという記述による。(後述)

➡地球の陸地がいくつかに分かれていると、地球の中心からの水が全土を潤すということはないが、陸地が一つに戻されれば、地球の中心であるエルサレムからの水が流れることは理にかなっている。

2)裁きを受ける者*20:11-15)

●下の「最後の審判」の作品を見て欲しい。右は、バチカンの天井画の全体で、中は画面中央の審判者キリスト。そして、左が審判の画の全体である。画面の上には十字架によって救われる人たちがいるが、下の群集は不信仰によって地獄に落とされるところである。

●このことが、20章1-15に書かれている。

*12-15)「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海(この世を指す)はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

➡「死もハデスも、その中にいる死者を出した。」は、人は死ねば終わりという事でなく、死者の世界(黄泉=ハデス)に行き、そこで、審判を待ち、やがて、最後の審判の時にキリストの前に引き出され、その行いと信仰によって裁かれ、救われない者は「第二の死」=永遠の地獄=ゲヘナに行くことになる。創造者であるキリストを信じなかった者は、キリスト再臨後、少なくとも千年時代をよみ(ハデス)で過ごして待たなければならない。このことを忘れてはいけない。

二、新しい天と地*21章)

1)全てを新しくする*1-10)

●「最後の審判」の後の世界は、今の世界からは想像出来ないことばかりである。だから、「すべてを新しくする」と言われている。

①まずなくなるもの、過ぎ去ったものは:「涙、死、悲しみ、苦しみ」、23節では「太陽も月もいらない」とある。

②8節にはこう書かれている。「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、そして、すべて偽りを行う者は「第二の死」=火と硫黄との燃える池の中にあるものを受ける。

「新しい都」「新しいエルサレム」が天から下ってくる。

  • 「神の幕屋が人ともにある」

➡これらはどういう事であろうか?良く味わっておきたい。

2)今起きている殆ど全てのことがなくなり・・・

●この一枚の小さい絵は、2階に6人、階段に2人、階下にも一人見えるが、この絵の状況は5分後にどう変わると想像できるか?

左の絵は、注意深く見ないとわからないと思うが、この5分後には、2階の6人は殺されているかも知れない。場所は、「遊女の館」に見える。階段を上る前の者はお祝いのリースを手にしているが、後ろの男はサーベルのような長い刀を持っている。(すぐに使うという体勢)ここには、②の中で該当する者が多い。

但し、この絵のタイトルは「お祝い」なので、「脅すふり」をして騒ぐだけかも知れない。右の写真はアメリカと北朝鮮の大統領と党委員長で、彼らは絶対的な権力を持っているが、彼らは、国の指導者だから、立派かというとそうとは言えないことが多く報じられている。トランプ氏は、10年間顧問弁護士だった人の証言で、ロシア疑惑での嘘を暴かれ、不倫相手のポルノ女優への口止め料を払ったと言われて、小切手も公表されている。

ミサイルと核開発で世界を揺るがし、国民の多くを最貧下に置き、兄すら殺し、多くの人々を処刑し、強制収容所に入れている。クリスチャンは信仰が知られるだけで生きていけない。しかし、親子三代が独裁者である。主の怒りはどのようなものだろうか。

●他にも、世界中に悲惨なことが起きている。中米ニカラグアやシリアの現状などは、是非BS朝7-8時のワールドニュースを見て欲しい。世界的な異常気象とともに、アフリカや中東、南米などの悲惨な状況が報じられている。エボラ出血熱も大発生している。ISに入っていて欧州に戻って来る男女がかなりいる。子どもは殆ど死んでいるし、教育はゼロ。全くの他人でありながらISで強制的に夫婦となり、戦闘、テロ、殺戮を繰り返し、今生きていける所もなくイギリスやドイツ、フランスなどに帰国してくる「戦闘員」が多い。彼らは、どれほどの罪を犯しただろうか。又、シリヤでは、元反政府支配地区だった町は、国が全部土地建物を没収していて、爆撃で逃げていた国民が帰国しても、財産は、全てサダト政権に奪われているのである。独裁政権に従わない者は全て切り捨てられる。

●上の二枚の写真が、一部分であるが人類の歴史を象徴している。「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、そして、すべて偽りを行う者」・・・この範疇に入らないと自分で思う者も、「不信仰」という一言だけで殆ど人が含まれてしまう。マルコ七章やローマ書一章の「罪の定義」を見て、「どこにも該当しない」と言える人はいないはずである。

例:ローマ1:29-30)「不義と悪とむさぼり。ねたみと殺意と争いと欺きと悪巧み、陰口、そしる者、神を憎む者、人を人と思わむ者、高ぶる者、大言壮語する者,悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者」などであるが、神=創造主を信じない者、礼拝してこなかったのは一番の罪である。

●いずれにしても、創造主ご自身がどう見ておられるか、そこが大事であるが、我々全人類に「老病死」があり、世界に争いの絶えないこの現実こそが、罪と裁きがあることの証明であり、聖書はそれが解決して下さるという約束である。

今の地球が「変えられる」との約束がされている。そこには争い、戦い、罪、死、悲しみなどがない!と言うことは絶対平和の愛の世界にされるということである。勿論、ふさわしくない者は、入ることはできない。そのことは、人が決めることでなく、創造主ご自身が決められる。だから、主のことばをしっかり学びたい。

3)聖なる都エルサレムが天から下ってくる*21:9-)

都の素晴らしさ:1

10節から、新しい都エルサレムの内容が紹介されている。12の門あり、イスラエルの12氏族の名が書かれているが、土台石にはイエス様の12弟子の名が書かれ、旧約聖書と新約聖書が一つのものであることがわかる。都の大きさはヨーロッパ位の大きさであるが、今の地球とは違い平面ではなく、四角の立体である。➡これは、ヨーロッパの上にアメリカも、アフリカ、アジアもあり、上下左右、どこでも安全に自由に行き来できる。又、城壁、門、土台石などは、すべてあらゆる宝石で出来ている。

都の素晴らしさ:2「共にいて下さる=完全なイン・マヌエル」

22節には、都の中に神殿がないとある。特別に隔離されたところ、誰も近づけない聖所に主がおられるというのでなく、主ご自身が私たちの中にいて下さる、それが新しいエルサレムである。*21:3「・・・『見よ。神(創造主)の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。・・』

●都の素晴らしさ:3、太陽も月もない・・・*21:23)

「太陽も月もない」ということは今の地球環境では考えられないことである。「すべてが死滅するのではないか」と心配するだろう。しかし、聖書を見ると、元々太陽も月もなかった。今の太陽系は今だけのものであり、永遠の中では不要なのだろう。代わりの光は何か?「神の栄光が都を照らし、子羊が都のあかりだからである」とある。

 そもそも、太陽には様々な有害の放射線がある。宇宙線(アルファ線、ガンマ線、デルタ線)もある。しかし、それらが一切ない、主ご自身の光ということは、もともと、「誰も見ることも、近づくことも出来ない光の中のおられる」とある、その万物の根源の存在の光だという事となる。

 その都には夜がないと書かれている。そして、ひとは疲れることも、眠ることもない。死もない。それこそ永遠の世界である。

●24と26節には、「地の王たちは・・・」「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る」とある。しかし、罪を持ったまま、不信仰な者は入れることはない。27節)

➡このことばには色々な解釈がなされるが、「信仰」「奉仕」「献身」「愛の働き」などを携えて主の身元に上っていくこととの解釈が一般的であり、その中には、「芸術、美術」も含まれるとも言われている。何れにせよ、主に喜ばれる働きを少しでも多くしておきたい。~出来るだけ少なく、最小限、という考えでは、主はどう見られるか。カインと同じと見られないか~

三、新しい都、永遠の未来*22:1-21)

1)御座から出るいのちの水の川*1-2)*エゼキエル47:1-12(P.1442)

●前回もお話ししたとおり、エゼキエル書には、38章にゴグ・マゴグによるエルサレムの総攻撃が描かれているが、その後47章には水が神殿の敷居の下から出て、全土をいやす様子が描かれている。最初は足首ほどの深さ(3)が、ひざに達し(4)、次いで腰にと、深くなり渡ることが出来なくなる(5)。その水が全土をいやす、回復させる。全てが良くなり、生きるとある(8-9)、又あらゆる果樹が成長し、毎月新しい果実を付ける。*12)

➡つまり、太陽も月もなく、その上「雨が降らなくても」水は与えられるのである。神殿の下から湧き出る水=いのちの水である。こちらの作品は2018年に描いたもので、いのちの水の川といのちの木を中心に描いている。太陽、月はなく、十字架の光がある。

●22章5節には「もはや夜がない」と書かれている。神である主が彼らを照らされるとある。

2)幸いな者とは・・・*14)

「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入るようになる者は、幸いである。」とある。

あなたは、着物を洗っただろうか?罪で汚れた着物を、イエス様の血によって洗って戴いただろうか?

*15)「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んだ偽りを行う者はみな、外に出される。」とある。=不信仰者は、「偶像を拝む者」と見られるだろう。

3)わたしはすぐに来る*20)

●17節には、「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」と言われている。そして、「来て下さいと言いなさい」ともある。*22:17)

●そして、聖書のイエス様の最後のことばが、「しかり、わたしはすぐに来る」である。そして、聖書は、「アーメン。主イエスよ、来て下さい。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように、アーメン」で完結している。

➡私たちも、同じことばを唱和して終わりたい。

*「私も、これまでの不信仰を悔い改めて、イエス様の救いを信じたい」という人がおられたら、礼拝後に私に声をかけて下さい。一緒にお祈りします。

●祈り:

礼拝説教原稿―⑦2019.3.3聖書箇所:ヨハネ黙示録19章1-10節 泉南聖書教会 大寺俊紀

「永遠の約束」

―キリスト・創造主を信じる者の未来―

初めに:先週は、東京での奉仕の後なので、少し休みを取らせて戴き、ネット礼拝を持ち、この礼拝の準備は3月21日(木)から始めた。今日の聖書か所は聖書通読か所のヨハネ黙示録19章1-10節とさせていただいたが、この箇所の続きとして、20章までを見て、次週には21‐22章を見たい。それは、ある異端のような「千年王国だけ」でなく、「その後の永遠」もあるから、この説教は印刷して復活祭のフライヤーと一緒に配布して、皆さんに聖書の約束の素晴らしさを知って戴きたいと思う。

一、大群衆の声*19:1)

1)大群衆=14章の14万4千人

●世の終わりには、様々な天変地異や世界的な大患難があると書かれている。また、獣と呼ばれる独裁者、「7つの頭と10本の角」と呼ばれる連合国の王(首相、大統領)たちもいる。ただし、7つの頭は、歴史上の帝国のことで、「5人はすでに倒れましたが、1人は今いて、もう一人はまだ来ていません。また、昔はいたが今はいないあの獣は8番目の王ですが、7人のうちの一人でもあり」17:10-11)とある。これは、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、オスマントルコなどの諸帝国をさし、8番目の王というのは「昔いた」ローマ帝国であるという解釈が一般的であるから、その場合は、「欧州軍」の結成がなされるであろう。(2018年には、ドイツとフランスで欧州軍の結成が一致している。)

●終わりの時の大混乱は、今日は省き、その最後の結末と、その後の恵みを話したい。

●19章1-2節には、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた、とある。「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」

➡この「大群衆」については、14章1‐5節で一度書かれている、「子羊がシオンの山の上に立つていた。子羊とともに14万4千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。・・・地上から贖われた14万4千人のほかは、この歌を歌うことが出来なかった。・・・彼らは傷のない者たちである。」と書かれた全世界の、全時代のクリスチャンたちである。

実は聖書にはイスラエル独特、聖書独特の数字が持つ象徴的な意味がある。

「旧約聖書のヘブル語と新約のギリシャは、共にアルファベットには数値が決められている。これを「ゲマトリア」という。
アルファ=1、ベータ=2,ガンマ=3、・・・オメガ=800
「8」:救いとイエスの数 イエスースということばは8になる。
「8の倍数」:主(キューリオス)。キリスト。主イエス、主キリスト、救い主イエス、御子イエスなど全て8の倍数のゲマトリアになる
「153匹の魚」:全人類の三分の一を表す数字(ヨハネ21:3-11)
「12」:数学的完全数6を足したもの。ヤコブの12人の息子、イスラエルの12部族、新エルサレムの12の門、聖書的完全数
「10」:聖書的完全数。十戒、出エジプトの際の10の災い、ほか
「7」:聖書的完全数。創造の御わざ(7日間)7日ごとの安息日。7つの封印、ラッパ、鉢、幕屋の7枝の燭台
「6」:数学的完全数。1+2+3=6自身を割り切れる数字を全部足すと同じ数に戻る
「40」:イスラエル民族の荒野の流浪、イエスの荒野の試練、ノアの洪水の際の40日の雨、モーセが十戒を受けるまで山中にいた日数
*14万4千人の数字の意味
黙示録には同じ数字が他にも出ている。21章17節では、「彼がその城壁を計ると、人間の尺度で144ペーキュースあった・・」とある。又、21章12,16節には、新エルサレムには「12の門」があって、「イスラエルの子らの12部族の名が書いてあった」ともある。新エルサレムというのは、イスラエル民族だけのことかというとそうではなく、霊のイスラエル=クリスチャンの都のことでもあるから、12部族の名は「象徴的に」用いられている。
新エルサレムの一辺の長さは「12000スタディオン」である。(21章16節)
又、都は四角であるから面は6面、辺は12ある。12000×12は14万4000。すなわち、14万4000は新エルサレムの数字、全クリスチャンを表す数字である。(「エルサレムの聖徒たち」のゲマトリアも144の倍数、「神の群れ」のゲマトリアも144の倍数、「選ばれた者」というギリシャ語のゲマトリアも144である。)
●実は、聖書中最も有名なヨハネの福音書3章16節のことばのゲマトリアも144の倍数で出来ている。「信者、ピストール」「信仰、テーン ピスティン」「聖徒たち、ハギオン」「天の御国、パシレイア トーン」なども全て144の倍数。
○こうしたことを総合的に考えれば、14万4千人というのは7章9節の「あらゆる民族からなる、数えきれないほどの大勢の群衆=救われたクリスチャン」と同じである。」」

2)天に挙げられるクリスチャン

●1節に「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。・・・」との大群衆の声があるが、「聖書は、終わりの時には、「キリストの再臨」があり、生き残っているものだけでなく、既に召された聖徒たちもキリストによって天に引き上げられることが、何か所にも約束されている。その時、「復活の体」を受ける、その復活のからだを弟子たちに見せて下さったのが福音書の最後に書かれている。

*ルカ24:36-39:「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見てわかるように、わたしにはあります。』・・・」

このように、死後3日経過した後に復活されたイエス様は、約束通りに弟子たちの前に現れて、私たちにも与えて下さる復活のからだを自ら示して下さっている。その後約40日して、イエス様は弟子たちの見ている目の前で天に昇られたから、与えられる「復活の体」は、天地を上下できる素晴らしいものであることがわかる。

●黙示録19:2節からも、その大群衆はさらに次のように言う。

「神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」・・・と続くが、その後、天で仕えている長老たちと4つの生き物はひれ伏して、御座に着いておられる神を礼拝していった。「アーメン。ハレルヤ。」すると、御座から声が出て、こう言った。

「神のすべてのしもべたちよ。神を恐れる者たちよ。小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」

3)「婚姻の時」=キリスト(花婿)とクリスチャン(花嫁)

●6節からは、「大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこういうのを聞いた」とある。それは、キリスト=全能者が王となられたとの宣言であり、「婚姻の時」が来たのだという。

●聖書にある「婚姻の時」とは、聖徒たち(イスラエルの聖徒たちとクリスチャン)が、完全ないのちを受けて復活させて戴くときのことを指す。永遠のいのちを受ける際の儀式で、それは、クリスチャンにとっても救いの完成の時=最も嬉しい時である。

➡その時、私たちは、8節にある通り、「輝くきよい亜麻布まとうことが」許される。「その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」ともある。

➡これは、「今後の永遠の世界で、正しい行いを行うことが出来るようになる」という意味と、「地上にいた間の過去の良い行いを評価していただける」との二つの意味があると理解できる。

●最後に、9節の次のことばを見たい。

「御使いは私(ヨハネ)に、『子羊の婚姻に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい』と言い、また『これらは神の真実なことばである』と言った。

➡私たちも、この聖書のことばを真実なものと素直に信じて、「子羊の婚姻に招かれる」ようになりたいものである。

二、天の軍勢の勝利*19:11-

1)次元の違う戦い?

●19章11節からは、白い馬に乗った再臨のキリスト率いる天の軍勢(御使いの軍勢)による、地上の悪へのさばきが描かれている。天の軍勢は白く清い亜麻布の衣を着て、白い馬に乗って従うとある。「白い馬」で、21世紀の軍勢と戦うことは想像が困難であるが、私は象徴的な表現であり、「次元の違う姿」での存在であり、地上の武器は何も通用しないで、圧倒的な差ができるのであろう。その戦い後は、神の敵はなくなり、全ての軍隊が武器を放棄することになるというイザヤの預言が実現するであろう。

●サタン=竜・悪魔・蛇が捕らえられる:20章1‐4節)

又、天から下ってくる御使いが、底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にしている。サタンは千年の間縛られ、諸国の民を惑わすことがないように、底知れぬ所(タルタールス)に投げ込まれ封印される。

●第一の復活20章4節-):「千年王国

 20:4-6節には「第一の復活を受ける者」が描かれている。彼らは、「イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましい」とある。彼らは「獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けなかった」とあるから、おわりの時、患難時代に信仰を守って殉教した者で、彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治めるとあるが、これは、一般的には全時代のクリスチャンとされている。

千年王国についてはイザヤ11:6-7などに書かれている。

*イザヤ11:6-7)「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追っていく。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。・・・」

➡これは、はっきりと書かれていないので、想像、期待していることであるが、イザヤ11章のような「回復」は、一般的には、「ノアの洪水以前の地球環境に戻していただく」ことだと言えよう。そこには次のような素晴らし回復がみられるはずである。

イ)地球全体が平和になる。ロ)動物の肉食が無くなるのだから、人間社会も激変する。ハ)核汚染された地球は、平和で安全な姿に、主の御力によって元に戻していただけるだろう。ニ)経済、産業社会も変化が見られるだろう。個人的には、大変牧歌的な田園風景を想像する。ホ)キリストのお姿と、復活したクリスチャンが御使いのような姿にされて天地を上下出来るのを見れば、地上の人間は、過去の世界的な対立、国家間の抗争は出来ないはずである。又、マタイ19:28にも主のことばがある。

*マタイ19:28)「そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従ってきたあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」

 ここにある最初の復活を受ける者とは、14章、19章冒頭の「14万4千人」「大群衆」と同一であると考えられる。

2)残りの死者:*黙示20:5-6)「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかったこれが第一の復活である。」「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死(永遠の滅び)は、何の力も持っていない、彼らはキリストとともに、千年の間王となる

➡マタイ19:28でイエス様ご自身が言われた「あなたがた」とは、イエス様に従ってきた者であり、一般的には全てのクリスチャンと受け取る(異端の場合はそれぞれ勝手に異説を唱えている)。それは、黙示録20:5の「第一の復活にあずかる者」である。キリスト再臨のときに復活を受け、それ以前には復活を受ける者はいない。それに反して、「そのほかの死者」は、千年王国の後に「キリストの裁きて、赦されれば復活を受ける。赦されなければ、永遠の滅びとなる裁きを受ける。」勿論、さばきの後に救い、いのちを受ける者もあるが、「少なくともキリスト再臨後の、千年後である」ことが大事である。

3)千年王国の終りの混乱*黙示20:7-10)

●ところが、千年王国の終わりに不思議なことが起きる。もう一度人間界に創造主に反抗する勢力が台頭する。千年間牢に閉じ込められていたサタンが牢から解き放たれ、四方にある諸国の民ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。ということは、この千年王国では、イザヤ2:1-4節にある「完全な武器放棄」はなされていないことになる。又、人間が、主に従っていたのは恐れから来る「表面的なもの」であり、「心の底から従っていなかった者もいた」ことが明らかになる。

 そのことをご存じの主は、千年王国時代に生きている人の心・信仰を試すために、サタンをもう一度用いて、本心から主に従うか、或いは反抗するかを見られるのである。(ハルマゲドンの戦いは16:15-21)

●この戦いも主の勝利は定まっている。「天からの火が降って来て、彼らは焼き尽くされる、」「悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれ」、「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」9-10)

三、白い御座の裁きと永遠*20:11-

1)白い御座のさばき*20:11-15)

●白い御座のさばきの後のことは次週に見る。

●20章の11節からの「白い御座のさばき」については、黙示録では簡潔であるが、それは、とても重要なことであり、イエス様ご自身も時々話されているから一番重要なことを話しておきたい。

①それは、羊と山羊に分ける裁きとも言われている。マタイ25章31-46(P.53)にあるが、羊とされた人たちは、「まことにあなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と言われる。山羊は、反対にそれをしなかった者たちである。それは、「小さい者たちへの愛」の大切さを教えている。

  • もう一つ、重要な言葉があるからしっかり覚えておいてほしい。

*マタイ7:21-23「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに向かって言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

●このマタイ7:21-23の裁きは、マタイ25章31-46のヤギと羊に分ける裁きのことであるとされている。イエス様の最後の審判は一度だからである。

●先日、TPCで話した、最も大事なこともこのマタイ7:21の裁きが、聖書の中で最も難しい言葉であると話した。特に、大活躍している牧師、教職者、そして信徒も一番犯しやすい罪である。

大教団の代表牧師、神学校の校長、大きいキリスト教系の団体の代表・・・ゲズイックコンベンションなどで、100人以上の牧師に出会うとき、あるいは、大きな組織の代表と出会う時、何度も感じた経験で、「上から目線」「自分を誇っている」「持ち上げられていい気になっている」「人や組織を支配しようとしている」「口先で何か言っても、実際は他の人を助けようとしない」・・・などである。

信徒の場合でも、「自分がうまくいっているから、高慢になる」「他の人の働き、提案などを馬鹿にし、反対する」「自分の支配を発揮したいという気持ちになる」・・・こういうことは起こりやすい。10年、20年ずっとそういう気持ちを根底に持つ人がいると、うまくいかないと離れてしまう。

➡それは、表面的にどれだけ成功したように見えても、イエス様は「あなたがたを知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け」と切られることとなる。だから、へりくだること、自分を誇ろうとしないこと、人を裁かないことなどを常に心がけなければいけない。

2)全てが新しくされ完全になるのだから、

●20章の「白い御座の裁き」のあと、「新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」と書かれているから、イエス様の最後の審判のあと、私たちが見ている今の地球も、その後の大きく変えられた千年王国の地球もぜんぶ過ぎ去り、「もはや海もない」という新しい天地に変えられるのである。その内容は、次回に見るが、「すべてが新しくされる」というこのことがどれほどのものか、期待だけでなく、怖れる気持ちももって、慎重に行動していってほしいと願う。でなければ失格者になるからである。

●祈り

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