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礼拝説教原稿ー④2019年1.27 聖書箇所ヤコブ書5章7-11節

『信仰と行い』

「信仰と行い」

―聖書は素直に読むことが大事―

初めに:昨年から5回のイザヤ書講解説教があり、エレミヤ書に入ったが、エレミヤ書は後ほど二回ほど取り上げることとし、新約聖書も数回お話ししようと思う。今日はヤコブ書の最後の5章であるが、ヤコブ書も大変貴重な書であり、1‐5章を「信仰と行い」に絞って、まとめて取り上げておきたい。

一、前提を持って読まないこと

1)ヤコブ書への批判=読む前に「自分」が入っていると素直に受け入れない

●「ヤコブは福音的ではない」との批判:ルターは、「救い、福音とは信仰だけによるのであって、行いを教えるヤコブ書が聖書の中にあるのは納得できない」と語ったという。

(また、ルターは、「神の救い、恵み・福音は、ユダヤ人からは取り去られ、クリスチャンに置き換えられた」とも教えたという。その解釈・神学はユダヤ人迫害への理解につながったと批判されている。

●しかし、このヤコブの手紙を書いたのは、イエス様の肉の家族の弟のヤコブである。ヤコブはユダヤの教会の中心的な存在であり、パウロがペテロと会うためにエルサレムに行った際も、他の使徒には一切会わずにヤコブとだけ会っている。

*ガラテヤ1:16-19(P.364)「異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。それから3年後に、私はケパ(ペテロ)をたずねてエルサレムに上り、彼のもとに15日間滞在しました。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。」

●「信仰と行い」のバランスを教えているヤコブは、世界の教会の中心にいて、教会がスタートしてすぐに様々な攻撃、批判を受けているのを見てきた。「ユダヤ教からの攻撃=律法主義への回帰」他方、「福音だけで良い=行いによって救われないから、行いは必要ない」だから、「良い行いを否定する」という解釈にもなっていた。ヤコブはその解釈に、人間の「聖書解釈のゆがみ」を感じていて、警告せねばならないと思ったのだろう。

 西大寺キリストの赤江牧師のお話でも、教会が幼稚園をスタートした頃は、「みことばを伝えるだけが大事であり、「幼稚園経営などはおかしい」との批判も受けたと聞く。

 大阪の堺市にあった米軍キャンプに同行し、来日した多くの宣教師たちで、「聖書幼稚園と教会」を同時にスタートした方々は、その後「福音交友会」となり、昭和聖書教会から始まって10近い教会を開いてきたが、私が47才頃、1年半礼拝に集った聖書教会は、幼稚園経営に批判的で別れている。そして、私が集っていたころには、「行いによって救われない」=「良い行いはしてはいけない」とも教えていたから、初代教会と同じ解釈は常に世界のどこにもあったのだと教えられる。

●ヤコブは、行いだけでなく、多くの示唆に富んだ言葉を書いているが、今日は、「信仰と行い」に絞って見たい。

1:22「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ、聞くだけの者であってはいけません。」

23「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」

25「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」

27「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困ったときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」

2章:13-14「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

15-17)「もし、兄弟たちかまた姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」

●このあと、アブラハムがイサクを捧げて、行いによって信仰が完全になったとある。

2)3,4章

3章:13「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人は誰でしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」

17「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」

4章16:「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。」17「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」

●ヤコブは行いだけを強調しているのでなく、良い行いを否定する愚かさ=心の冷たさを戒めている。これは、人としての愛があるか、そして、信仰者としての愛があるかが大切だという事である。

また、「空しい誇りを持つことを戒めている。」実は、私は来月の18日(月)の東京御茶ノ水OCC4階のTPC(東京プレヤーセンター)昼の礼拝での奉仕を依頼されているが、そこでのテーマは「駄目画家、牧師の証し」-(副題)最果てのローカル線の駅員、件草抜き、トイレ掃除員の駅長のような者の役割―であるが、私は心から、「誇ることが何もないことが恵み」だと思っている。。

 以前、「迫害に苦しんでいたある宣教師」さんは、私にこう言われたことがある。「私にも、『成功したい、大きい組織を指導するリーダーになりたい』と言う気持ちがあった。しかし、徹底的にへりくだりを教えられて、最も小さい者にさせられたお陰で、罪を犯さないで守られていると思う。」と。

●色々な牧師、宣教師、信徒を見ていて教えられるのは、上の宣教師さんのような「罪の誘惑」があると、牧師に反発したり、教会を離れたり、集まって派閥を造ろうとする・・・こういうことが、教会内で最も重い罪=派閥抗争=教会破壊の罪になるということは、私は過去に何度話したかわからない。しかし、やはりまだ起こりうるし、今もなくなっていない。

先週、草場伸滋兄は、礼拝後、「説教、良かったねー」という、皆さんからの賛辞のことばがあったときに、「それは、私は先生の指導をしっかり聞いているから、それに従って安心して出来ているからです。」と言われたが、残念ながら、同じように信徒説教をしていても、牧師が添削した原稿を完全に無視して話す、そういうことが一度でもあると、その人はそのあと離れてしまう。そこには怒りがあっても、平安や従順、愛は消えるものである。

二、ヤコブ5章

1)今の世の楽しみだけを求めずに*5:1-6)

●5章1-6節は「富の危険性」を教えている。特に不正に得た富、財宝、そこからなされる贅沢や快楽は裁きの日に殺される準備をするようなものだと警告している。富はみな、不正の富という事ではなく、正当な報酬から得たものも多いから、富(金持ち)全てが悪いという事は言っていない。現代の日本でも、ソニーの創業者井深さんや、森永の初代社長、近江兄弟社(メンソレータム)、ヤマザキパン、マキタスポーツ…いろいろな会社の創業者がクリスチャンで、会社とお客さん、そして特に社員を大事にしていると聞く。(勿論、教会への献金も、自分の役割だと思ってされているだろう)

 反対に、今苦しくても、地上の人生が苦しくても、「耐えしのぶ」ことが大事である。農夫が、大地の実りを耐え忍んで待つように、クリスチャンは、地上の人生の苦しさは、一時的なものであり、永遠のいのちの希望があることを信じて不安や失望から解放されて歩みたいものである。

●今ここで、60歳を超えた皆さんに語りたい。(40才、50才代だと、まだ次の展開、事業に挑戦できる年令だと思うが、)60才を過ぎると、一般的には、年金なり、株の配当、そして、子どもや孫のことに関心が向かい、これから、又大学に行って何かを学び、新しい仕事に挑戦する、新しい事業、会社を立ち上げる・・・こういうことは、自由業の芸術家以外には考えられないと思う。(芸樹家は一人の仕事なので、70,80才でも閃けば展開できる)

➡しかし、クリスチャンは全く違う!

  • 地上の今の人生は、60年でも「一瞬」に近い。(永遠の時、主から見れば)
  • 死後、そしてキリスト再臨後は、「永遠のいのち、体」に復活させていただける。
  • 永遠の時に、どこに置かれるか、何をするか、出来るか=それはわからないが、イエス様が与えて下さる。だから、聖書の言葉を信じて、歩んでいこう。

2)耐え忍びなさい*5:7-11)

●だから、7節には、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」と書かれている。

元旦礼拝でもお話ししたが、主キリストが再臨される日は遠くないと思われる。仮にそれが少し遅れても、私たちは死者の世界(黄泉)で待つのでなく、天に挙げられて待つのであるから不安は全くない。

●又、9節では、「互いにつぶやき合ってはいけません。裁かれないためです。見なさい。さばきの主が戸口のところに立っておられます。」とある。

➡「互いにつぶやく」:これは、批判、文句を言うなどである。

教会にいて、「もっとこうして欲しい」とか「こうあって欲しい」とか思うこともあるも知れない。また、「こうしたい」、自分の立場がもっと強くなり、指導権を発揮したい」・・・こういう気持ちを持つこともあるかもしれない。しかし、その思いが、「自己中心」「自己実現」「他者批判」「悪口、陰口」となると、裁きを受けることとなる。これが教会内での最大の罪となることが多い。

三、聖書全体が教える「愛の行い」

1)「わらの家(自己愛の行い)と、金、銀、宝石の家」のたとえ

●ヤコブが教えていることを、聖書全体、又イエス様がどのように言われているかを考えてみたい。

➡実は、このことは、クリスチャンが成功するか失敗するかの鍵となる大切なことである。

*Ⅰコリ3:12-13「もし、だれかがこの(キリストの)土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」

*同14-15「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

➡主の火によって焼かれる建物とは、「木、草、わら」の家である。それは人間的な動機で働いた家であり、残される建物は「金、銀、宝石」で建てられた家である。後者は、「高価、贅沢」という意味でなく、「主の御心」によってなされた働きである。

 焼かれる建物は、「自己実現、自己保身、自己憐憫、名誉や欲望」でなされた働きである。

わらの家などは焼かれて損害を受けるが、自分自身だけが信仰によって、「火の中をくぐるように」とあるように、「かろうじて助かる」事がわかる。

➡しかし、次のマタイ7章の主のことばは一層厳しい、「あなたを知らない」と言われる。

2)「わたしはあなたを知らない!」と言われる者*マタイ7:21-23)

―牧師にとって一番大事で、難しい注意点!―

●2月18日にお茶の水のOCC4階のTPC礼拝で私が奉仕をするときの「中心聖句」がこれである。わたしは、この21節のことばが、牧師にとって一番大事で難しい言葉だと思っている。

*マタイ7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」

*同22-23「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私はあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らに向かってこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。』

➡大教会の牧師、大教団、大きい団体の指導者、神学校の指導者…どんなに力があって、名が知れ渡っていても、どこかに「落とし穴」がある。「それは何か?」我々にはわからない。

●尚、このさばきは『白い御座の裁き』とも言われる。全ての人が羊か山羊にわけられる日である。*マタイ25:31-46

➡長いので、一部を書くと、全ての人は栄光の座に着かれたキリストの裁きを受ける。

羊は右に、山羊は左にされる。羊とされた人たちには、「御国を受け継ぎなさい」と言われる。理由は、「わたしが裸のときに。着る物を与え、わたしが旅人であったときに宿を与え・・・」と続くが、羊とされた者は、「私がいつ、あなたが旅をしているときに泊まられ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか」と問う。その答えは、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。」と答えられる。

➡ところが、山羊とされた人たちが、『いつあなたにしなかったのですか』と問うと、「この小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです」と答えられ、「永遠の刑罰に入れ」と言われるのである。

3)父のみこころ

3)父のみこころ

それは、聖書全体から父のみこころを知り、それを行うことであり、「自己憐憫、自己実現」とは180度違う事だけは確かである。このことを祈り、足らないこと、罪は悔い改めて歩むこと、小さい者を助ける愛が一番大事だと教えられている。

●ヤコブ5:11には、ヨブの忍耐のことが書かれているが、ヨブは子どもたちも、全財産も失うという特別厳しい試練を受けたが、主への信頼を捨てず、最後には2倍の祝福を受けた。私たちも、地上では恵みや祝福を受けて楽しむだけという事は望めない。大事なことは、地上は永遠のための準備期間であり、今ここで完成するのではない。地上の苦しみや恵みは一時のものである。それを常に忘れないようにしたいものである。

●最後に、いくつか、他の聖書箇所から、良い行いを勧めている箇所を見ておこう。

コロサイ1:10「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、
あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

*ヘブル1316「善を行うことと、持ち物を分けることを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」

*テトス38B「・・・それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」
*Ⅰテモテ6:18「また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように、」

*Ⅱテサロニケ3:13「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行いなさい。兄弟たちよ。」




●祈り」


礼拝説教原稿③信徒説教  2019.0120  ヘブル人への手紙11:1-6草場伸滋 

「目に見えないものを確信する」

はじめに:私の受洗記念日は2012年1月8日である。主に招いて頂いてから、今日で7年と12日となる。今日の聖書箇所のヘブル書11章1節を読むとき、洗礼前の入門クラスで学びを受けていた時のことが思い出される。その学びの中で、“人生は旅である。私たちは愛を学ぶために、神からこの世に旅に出されている。そして、人生を切り開いていく力となるのが信仰であり、信仰とは、創造主の存在を認め、信頼し、従うこと”だと、学んだ。今日は、その信仰について「目に見えないものを確信する」というタイトルで、聖書に学びたいと思う。

一、信仰とは(11:1-3)

●先月23日の安井師の説教において、進化論を信じるのも信仰だし、創造論を信じるのも信仰、でも正しい選択をしないと実が結ばれない。「真理に従うこと」が大切であり、聖書(=真理)に従うことが、望ましい信仰だと語っておられた。また、*Ⅰペテ1:20-22)に次のようにある。

「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。(1:20)」

「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。(1:21)」

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。(1:22)」

このペテロのことばこそが、私たちキリスト者のあるべき姿なのだと思う。そして今日の聖書箇所の出だしには、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)」とある。このことに、少し思いを寄せたいと思う。

1.信仰は望んでいる事がらを保証する(11:1A)

●私たちの誰もが、何よりも望むべきものは、罪からの解放である。罪からの解放無くしては、何を望んでも虚しいものとなってしまう。なぜなら、私たち皆が「・・・不従順(主に従わない)の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子ら・・・(エペ2:3)」だからである。

●私たちの幸せ感は、人それぞれで多種多様だと思う。でも幸せの根本は、安息の中での人生にあるのではないだろうか。幾らお金や名誉や権力を手にしても、心配事があったり、やましいことがあったりするのでは、幸せな人生には繋がらないと思う。故に、私たちの最大の願いは、「自分の罪過と罪との中に死んでいた者(エペ2:4)」という状態から解放されることにあると言える。

●そんな私たちに、愛の神である創造主は救いの手を指し伸ばしてくださっている。その事が、ヘブル書に次のようにある。

⇒「・・・イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(2:9)」

イエス様が味わわれた苦しみは、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため(2:15)」だったのである。ならば、私たちはこの大いなる神の恵みに対して、どう答えたら良いのだろうか。ヘブル書に尋ねると次のようにある。

⇒「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけない。(3:12)」

⇒「また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(3:18)」

⇒「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。(3:19)」

⇒「信じた私たちは安息に入るのです。・・・みわざは創生の初めから、もう終わっているのです。(4:3)」

今読んだように、愛の神である創造主が私たちに求めておられることは、神から離れないようにすること、この一点に尽きるのである。

即ち、イエス様が十字架の死と復活によって、罪の贖いのわざを完成され、「(イエス様)に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者(5:9)」となられたのである。この福音を信じること、この信仰こそが、望んでいる事がら(=罪の世界、滅びからの解放)が保証され、私たちの人生が支えられる唯一の方法なのである。

2.信仰は目に見えないものを確信させる(11:1B)

●ここにいる私たちは、イエス様を信じる者たちである。この信仰によって、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つものです。(10:39)」と、言われている人たちの輪の中に、入れて頂いているのを確信している。

でも、私たち人間は弱い存在であり、気持ちには昂りや落ち込み、ムラがある。だからといって緊張ばかりしていると、長続きしないものである。このように、私たちにとって長い人生を、常に正しい姿勢で貫き通すのは、とても困難な事である。だから、私たちは次のことをしっかり覚えて歩む必要があると思う。

⇒「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。(3:13)」

⇒「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。(3:14)」

3.信仰によって悟る(11:2-3)

●ヘブル書の著者は、①「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。(11:2)」。②「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(11:3)」と言っている。

このことを理解するために、詩編33編を見てみよう。ここには、旧約の時代の人たちの信仰と、神を讃える詩(うた)が記録されている。その中でも次の二節に注目して欲しい。

「主(=創造主)のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。(詩33:6)」

「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。(詩33:9)」

即ち、旧約の人々(=昔の人々)が称賛されたのは、創造主によって天地万物が造られたという創造の信仰によって称賛されたのである。まさに、昔の人々が、創世記1章に記録されていることが真理であることを悟っていたということである。なぜ悟ることが出来たのか、それは信仰そのものが神の恵みゆえに与えられる神からの賜物(エペ3:8)だからである。

二、神に喜ばれる(11:4-5)

だから、ヘブル書の著者は「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(11:6)」と言っているのである。そして、歴史上の人々の信仰がどうであったのかを、洪水前の人たちから始まり、アブラハムとサラ、族長たち、モーセ、・・・(モーセ以降省略)・・・と、時代を追って、11:4~11:40に書いてある。今日は時間の関係もあり、洪水前の人たち(アベルとエノク)の信仰に絞って学び、私たちの信仰の糧にしたいと思う。

1.アベルの信仰(11:4)

●*11:4)に、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とある。カインとアベルの記録は、創世記の4章に出て来るが、カインとアベルは兄弟で、兄のカインは土を耕す者、弟アベルは羊を飼う者であった。この兄弟が、主へのささげ物を持って来たときの話が、創4:3-7)にある。

⇒「ある時期になって、カインは、地の作物から主(創造主)へのささげ物を持って来た。(4:3)」

⇒「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主(創造主)は、

アベルとそのささげ物とに目を留められた。(4:4)」

⇒「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。・・・(4:5)」

●二人とも、ささげ物をしたのに、「カインとそのささげ物」には目を留められなかった。なぜなのか、ささげた人の信仰に大きな違いがあるからである。

神に喜んで頂けるような正しい心と態度であったかどうかが問われている。その理由を創造主は、次のように言われた。

⇒「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行ってい

ないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。(創4:7)」

●このように、主はカインに気づくように諭しておられる。もう一方のアベルはどうであったか。「彼の羊の初子の中から、それも最上のもの」を捧げた。自分の初めての収穫、しかも最上のものを捧げるという行為に、主への感謝の心が現れている。アベルが初子の中の最上のものを捧げることが出来たのは、それほど主を信頼し、主の恵みに心より感謝していたことの表れである。私たちの献金や奉仕も、真っ先に最上のものを捧げるという気持ちの大切さが教えられる。月の終わりに残ったものを捧げるようになってはいけないということである。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ・・・(11:4)」た。主は、全てを見ておられ、全てをご存知である。だから、

「主(創造主)は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。・・・(創4:4)」

即ち、ささげ物によって、「彼(アベル)が義人であることの証明を得た(11:4)」のである。

この後、不幸にもアベルは兄カインに殺されてしまったが、*11:4)「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とあるように、こうして今、我々がアベルの信仰に学んでいる。彼の信仰を見倣い、主に祈り、強められて歩みたいと思う。

2.エノクの信仰(11:5)

●*11:5)「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」とある。このエノクの記事は、創5:21-24)にあるが、ごく短く記録されているだけである。

⇒「エノクは、六十五年生きて、メトシェラを生んだ。(5:21)」

⇒「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。(5:22)」

⇒「エノクの一生は三百六十五年であった。(5:23)」

⇒「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(5:24)」

このように簡潔な表現に留められているが、リズム感があり、不思議と心に染みて来る文章だと思う。このように感じるのは、この短い文章の中に、「エノクは神とともに歩んだ」と二回も表現されていて、エノクの強い信仰心が伝わって来るからに違いないと思う。

●「エノクは神とともに歩んだ」=「彼は神に喜ばれていることが、あかしされていた。」即ち、エノクが信仰の人であったので、神に喜ばれたのである。

しかも、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」=「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」=エノクは死を経験することなく、生きたまま天に上げられたということである。それ程創造主は、彼の義を褒め称えられているのである。

「三百年、神とともに歩んだ」とある。この事は並大抵のことではないと思う。一人ひとり胸に手を当てて考えてみれば、一年間でも、常に「神とともに歩む」ことは大変ではないだろうか。エノクは「三百年、神とともに歩んだ」のである。彼がいかに主を恐れ、愛したかに思いを寄せ、学びながら、我々も常に主とともに歩むものでありたいと思う。

三、信仰とは(11:6)

●ここまで「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(11:6A)」ということを聖書に学んだ。では、「信仰とは」について、少しおさらいをしておきたいと思う。

1.神に近づくこと

●*11:6)「・・・神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあるように、信仰とは、神に近づくことである。「・・・哀れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けをうけるために、大胆に恵みの御座に近づく・・・(4:16)」ことなのである。何故なら、イエス様は「・・・ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(7:25)」とあるからである。遠慮や躊躇はいらない、大胆に近づけば受け入れてくださる。主は、すべての人たちが近づいて来るのを待っておられるのである。

2.主を信じること

●イエス様は、最初から「救い主」として、世に告知されていた。

⇒「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)」

●そしてイエス様は、ご自分が死の苦しみを味わうことによって、私たちを死(罪の世界)から贖い出してくださった。

⇒「・・・イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(2:9)」

●それは、創造主からの大いなる愛の現れ、恵みなのである。

⇒「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(2:10)」

●主を信じるということは、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの(11:1)」であり、平安に満たされるということである。「それゆえ、・・・安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかる。(3:19)」のである。だから、私たちは、次のことをしっかり覚えて歩みたいと思う。

⇒「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されました。(12:2)」

祈り

礼拝説教原稿―②2019.1.13聖書箇所:イザヤ65章17-25節 泉南聖書教会 大寺俊紀

「新しい天と地を創造する」

―未来の約束―

初めに:今日の礼拝は、聖書の中で、未来の約束の最も素晴らしいものの一つです。元旦礼拝では、イザヤ53章から、イエス様が十字架にかけられる、そのことの意味を語られたが、そこまでして下さるのは何故か。私たちに対する創造主の愛が大きいからですが、救いを受けた一人一人がどう扱われるのか、どのように愛されるのかがわかるように書かれていますから、まさに入門中の入門の書です。

一、新しい天と地を創造される目的*17)

1)世界は滅びに向かっている

●残念ながら、「万物は滅びの法則」に沿って進んでいる。物理学の法則の中で一番重要なものは「エントロピーの法則」だそうである。その法則の前には万有引力の法則なども無に等しいほどの絶対的な法則と言われる。

 それは,「エネルギーの総和は一定である」が、「使用できるエネルギーは減少一途にある」ということで、言い換えると、次のようになる。

  • 万物は滅びに向かい、使用可能なエネルギーは減る一方である。
  • 自ら向上していくものはなく、全ては消滅、滅びに向かっている。=自ら向上して、発展、進化していくことは起こらない=
  • 新しいエネルギーが自ら生み出されて発展に向かうこともない。
  • にも関わらず、人類は争いを起こし、地球の温暖化を進め、エネルギーの無駄遣いをして、ますます「使用可能なエネルギーを減少」させる一方である。
  • 更に、「人類を20回、絶滅できる」と言われる、決定的な核破壊兵器を持ち、それが使われる可能性が高い。又、その前に、様々な環境汚染によって地球環境は危機に瀕しており、数十年後の気候は人類の生存を許さないほどになると予想されている。
  • 人類の悪の勢力は増え続け、キリスト再臨の地と約束されているイスラエルに対して、ゴグ・マゴグの攻撃がおこると書かれているが、世界情勢は、その聖書預言通りになっている。(ロシアの中東進出=シリアへの基地建設、リビヤへの介入など、イランやトルコのアラブ軍結成、ドイツ、フランスが「欧州軍」結成呼びかけ)

●世界戦争、地球環境の悪化=極端な異常気象、核汚染・・・

➡もはや「人類に地球を管理することは出来ない!」「地球は作り替えてもらわないと住めない!」・・・そのような事態が来るだろう!

●先月見た真面目なテレビ番組で、30年後の天候は、夏場は四〇度もあり、台風は大型化し、「風速70Mの超大型台風が来る」との報道だった。70Mになると、頑丈な鉄骨の建物以外は、普通の住宅やビルも、完全にペシャンコになる。90%以上の建物は人が住めなくなるから、恐ろしい。

2)医学の進歩があっても・死は避けられない

●「地球が危ない!」しかし、その前に・・・私たちにとって大事なことは、「老、病、死」ではないだろうか

●仮に、異常気象が少し緩んで、地球の気象が落ち着いたとしても、医学の進歩がもっと進んでも、聖書には「人の寿命は120才にする」と言われている通りである。(創世6:3)

 ~でも、この120才は、最初の設定、設計ではない!人が罪を犯したのちも、地球環境が良いために長寿だったから、洪水を起こされるときに、主が言われたことばである。~

●創世記6:3を見てみると、ノアの洪水の一つ前の5章では、人類は千年近く生きている!このことは後で触れるが、創世記2章で罪が入り、3章で裁きを受けた人類は、エデンの園から追放されたが、地球環境は創世の地球と変わらず、あらゆるものが大きく、豊かで、長寿であったらしい。そのために、人類は好き勝手に生きて、罪を犯し、怒りを受けた。そこで、主は「人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられたのである。(肉食解禁された)

➡人類のいのち=寿命は、創世記2章までは「死がない=永遠のいのち」3章から6章の洪水までが「千年近く」、そして、6章の洪水以後は「百二十年以内」と変わっている。

➡つまり、現在は「死が避けられない=七十年、八十年」である!

*詩編90:10(モーセの祈り)「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは、労苦とわざわいです。・・・」

3)主の救いのご計画

●聖書の素晴らしいことは、人の想像を超える「大きさと愛」である。それは、あまりにも素晴らしいので、一般にはなかなか理解されない。そこで、私は、今日は二つの視点から、それを説明したいと思う。

イ)一つは、創造主の、父(母)としての愛の御心。

ロ)二つ目は、預言と歴史を通して、そのご計画を示されていることである。

二、本当の父・母ならどうされるか?

1)「創造主のご計画=二段階の解決」

●まず、聖書が示しているご計画と地球の歴史を簡単に書こう。

(1)本来は、死のない世界、エントロピーに支配されない「永遠の世界」を創造されたはずである。=ご自身が永遠の方であり、エントロピーの法則に支配されない。3章までは「死」はなかった。

(2)一つだけ条件を付けた。「善悪の木の実を食べてはいけない。食べると死が入る」=それは、「自分を神とせず、創造主に従う」と言うだけの条件である。しかし、誘惑されて、それを破り、死が入った。(=エントロピーの法則が入った)

(3)死が入ったが、まだ地球環境は良くて、長寿が許された。(5章を見ると、人はみな千年近く生きた)

(4)人間の罪深さに驚きあきれ、主は洪水を起こされ、地球環境は一気に悪化した。(人の寿命は百二十年以内にされた。)

・・・救い主キリストの降誕、受難・・・

教会時代(宣教時代)

➡数千年後にキリストの再臨。信仰者の復活

*イザヤ64:1「ああ、あなたが天と地を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」

(5)キリストが約束通り再臨され、信仰者は全て天に上げられ、共に降りてくる。

(身体は死のない復活の身体とされる)

(6)このとき、地球は再生される。(あらゆる環境に悪いものを除去、無力化、解決) 

➡地上の反イスラエルの「ゴグ・マゴグ=サタンに従う勢力」に加担するものは「絶滅」させられる。

➡地球上から全ての軍隊がなくなる。世界平和。

(7)全宇宙の再創造。(全宇宙の再創造は次の段階?)永遠の世界。地球環境は「創世の地球=ノアの洪水前」に戻される。

  ○地上の人のいのちは「木のようになる」*イザヤ65章17-25節

   泉南市岡中の楠は樹齢約500年

   アメリカヨセミテの木は樹齢約千年

   エルサレム、オリーブの岡のオリーブは2千年

  ○動物の肉食もなくなる。イザヤ65:25

②・・・キリストによる最後の審判・・・

➡エントロピーの法則の廃止。(全宇宙の再創造はこのときかも知れない)

死のないものになる=永遠の世界、いのち、

新天新地=天の都が地上に降りてくる。

2)イザヤ65:17からの約束(P.1233)

*イザヤ65:17:「見よ。まことにわたしは新しい天と地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。・・・」

*同65:19B~20):「そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」

「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」

*同65:22:「彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、・・・」

○ここで、人の寿命が「木の寿命に等しく」とあるから、五百歳、それ以上もあるということで、「ノアの洪水前」の創世記5章の人々(洪水前の人々)と同じと考えられる。

➡キリスト再臨後の「新しい天と地を創造」の規模はわからないが、全宇宙の再創造かも知れない。「先の事は思い出されず、心に上ることもない」とあり、今、我々が見て知っている宇宙とは全く違うものとなるだろう、「天は巻かれる」とあることばの実現かも知れないが、最後の審判後に再度完成するかも知れない。

但し、最後の審判までは死が残っているから、主のご計画では、最後の審判の前と後での差は大きい。その審判の前後の差が何かは、特に地球環境の差は我々にはわからない。

3)「動物の肉食」もなくなる=当然人も菜食に?!*24-25)

●65章の最後には、「主がそばにいてくださる」(24)事と、「動物の肉食、食物連鎖」がなくなることが書かれている。(25)

●主がそばにいてくださり、「呼ばないうちに答え」「語っているうちに聞く」という「近い関係」にあることが教えられている。それも創世の地球と同じであろう。(但し、アダムは罪を犯したので隠れて逃げた)

●又、25節の「肉食の廃止」は被造物全体の夢、願いであろう。「狼と子羊が共に草をはみ」「獅子は牛のように、わらを食い、蛇はちりをその食べ物とし、・・・」は動物間の肉食、争いがなくなることであり、それは創世記1章最後の主の定めに戻ることである。

ここに書かれてはいないが、人も同じ原則に戻ると思われる。

*創世記1章29-30節)「神は仰せられた。『見よ。わたしは全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶ木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての綠の草を与える。』そのようになった。」

●勿論、このときの地上には、すべての軍隊も廃止されているだろう。

*イザヤ2:4「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

三、預言と歴史を通して確かさを教える

1)「創造主の愛」本当の父母ならどう思うか、どうされるか?

●2章で書いたことをわかりやすく整理すると次のようになる。

キリストは再臨されて、万物を更新される。 環境悪化した地球を再生させる。イスラエルを攻撃する人類を裁き、地上から、すべての軍隊・兵器を廃止させる。罪を悔い改めて、主の救いを信じた者たちに復活の身体を与える。(天地を上下できる)動物たちの食物連鎖をやめさせる。(肉食動物も草食になる)=人類も菜食に? ~それは、果物、穀物がとても豊かでそれだけで十分ということになる~ ~人間の食用にならないことで、家畜も幸福になる~ 人類の寿命は、木の寿命のようになる。創世記5章の長寿時代に戻る?『最後の審判』を経て、永遠の世界になる。➡新天新地

こんな素晴らしいことを、何故なさるのか?

➡それは、『創造主だから』『愛の方だから』という以外にない!

➡それと、元々、創世の最初はこのような素晴らしい地球だった!それを回復させると言うことにすぎない。

●創造主が『愛の方』であることは、すべての被造物にとって幸いなことである!

『愛』の方だから、元々すべてが美しい。自然、花、木々、鳥、動物たち、そして人間。

美術や音楽なども美しいのは、元々創造主によって人類に与えられたものだからである。

●しかし、・・・

残念ながら、最初の人アダムの罪によって『死』が入り、すべてにエントロピーの法則が適応されることとなった!

➡それを、元通りに回復されるのが創造主の愛のご計画。

➡人の罪からの救いも、信じ、愛し、従う者でないと受け取ることは出来ない。

 父を愛する者でないと、最終的に父に愛されない、それは当然のこと。

 愛は強制されない。自ら進んで創造主を敬い、愛することが大事。

2)疑い深い人間が信じることが出来るように!

●主は、私たちが創造主の救いを聞いて、信じることが出来るように、色々な配慮をして下さっているが、一つだけ、『決定的な事実』を話そう。

➡皆さん、中東にイスラエルという国があることをご存じですね!?聖書は次のように書いています!

  • その国は、約2000年前(AD70年)に国がなくなり、約1900年後の1948年再建された。

②このことは、約2千年前にイエス様がその滅亡も再建もはっきりと話されている。(ルカ21章21-28節)

③しかも、同じ事を更に1500年前のBC3500年にモーセが預言している。(申命記38章)

④イスラエルが再建され、ロシヤや周辺アラブ国に攻め込まれるときに、キリストが再臨されすべてを完成することを預言されている。(ルカ21章27節、ダニエル書、エゼキエル書、ゼカリヤ書など)

●イザヤ64章8節には、「私たちは粘土で、主は陶器師です。」とある。私たちは作られたものであり、作って下さった方の声を聞かなければいけない事に気づいて欲しい。

4『わたしは一日中手を差し伸べた』と言われる主*65:2)

●今日のイザヤ65章2節には「わたしは一日中手を差し伸べた」と書かれている!」

どうか、この方のことば、イエス様の救いを素直に受け入れて欲しい。

●祈り -count:2.

2、2019年1月1日(火)元旦礼拝

「礼拝説教原稿―①2019.1.1礼拝聖書箇所:イザヤ53章1-12節 泉南聖書教会 大寺俊紀
「罪過のためのいけにえ」

―元旦礼拝―

●明けましてお目出とう御座います。昨年の秋は大阪北部地震と9月の台風、そして北海道地震と、大変な災害続きで大変でしたね。今年は穏やかな一年であって欲しいですが、一層厳しい事態になるのではないかと危惧されます。ネットや海外の国際ニュースを見ても、-99%の日本人は無関心ですが-実はイスラエルを取り巻く状況は、いよいよ聖書預言通り=特に「エゼキエル戦争」とも呼ばれる、エゼキエル38章の記述の通りに進んできています。(ダニエル預言、黙示録とも一致)
●今日の礼拝は、最初にこの問題を取り上げ、次に、聖書箇所であるイザヤ53章に進みます。

一、2018年の中東・世界情勢
-アメリカの撤退とロシアの進出、欧州軍-

●2018年12月に驚くべきニュースがあった。
(1)アメリカがシリヤから撤退する。トランプ大統領は、「アメリカ第一政策」で、「シリヤやイラクで、ISに勝利をしたから、アメリカ軍はシリヤから撤退する」と発表した。そして、その撤退に反対していた側近(国防担当)を辞任させた。
これは、大変な事に発展する。昔のベトナムからの撤退とは違う。アメリカの青年は、一時的に歓迎するかもしれないが、結果として「中東は完全にロシアとイランの支配下に入る」事となる。すでに、シリヤ内には数十のイランとロシアの基地があり、みなイスラエル攻撃に備えている。それが完成する。
(2)リビヤ情勢:リビヤは「アラブの春」の時に、カダフィー大佐が失脚して以来、大混乱して、政情不安定であったが、最近政治が安定し、政権が強固になってきた。そして、ここでもロシアが発言力を強めて、支配権を持ってきたという。
カダフィーのいないリビヤは弱くなったと思っていたが、ロシアに支配される政権になると、彼らはエゼキエル戦争に加わることが可能になった。プテはリビヤ。クシュはエチオピア。ペルシャは勿論イラン!
*エゼキエル38:5)「ペルシャとクシュと、プテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとをつけている」とあるエゼキエル38章のイスラエル攻撃戦争の中に名が書かれている国である。
これで、エゼキエル38に書かれている体制が整う。
*エゼキエル38:2-6)「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。ペルシャとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを付けている。ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。・・・」
*注:「ゴグ・マゴグ」は国名ではなく悪の勢力の呼称であるとされている。
*メシェクはモスクワ、トバルはトバルカインとのロシアの古い地方の名、全て北の国々
勿論、攻撃先はイスラエルである。それも、数百年、数千年という長い苦しみの歴史を経て、世界中から集められ、安心して住んでいる~まさに21世紀の今のイスラエルである。
*エゼキエル38:8:「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。」
(3)更に、「欧州軍」の創設も!
2018年12月にはフランスとドイツのマクロン大統領とメルケル首相は、「欧州軍の創設」で一致したと報道された。
これも、ダニエル書と黙示録にある「旧ローマ帝国の末裔の10カ国連合」のスタートだと思える。
欧州軍(?)が「10カ国になり、一つの角(リーダー)が主導権を取り、3人を倒す。「一つの角は致命的な傷を負って、死んだかに見えたが生き返る」から彼が「獣=荒らす忌むべき者」になるという、ダニエル書と黙示録の預言が実現するかどうか注目せねばならない。
●ダニエル書7章、黙示録13章の一部
*7:19-21「それから私(ダニエル)は、第4の獣について確かめたいと思った。それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで彼らに打ち勝った。」・・・
*7:25B-26「聖徒たちはひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。しかし、さばきが行われ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。」
*黙示録13:1「また私は見た。海から一匹の獣が上ってきた。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」
同1:3+4A「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして竜を拝んだ」
(4)「聖書からアメリカの記述が消える」
●最初に、トランプ大統領のシリヤからの撤退を取りあげたが、それも、意味がある。
聖書は2千年前に完成した書であるから、当時はアメリという国はなく、その名が聖書に出てこないが、アメリカであることを示唆する国の記述もない。例えば、欧州の民が発見した新大陸の国が、世界を支配し、イスラエルを守る」、などの記述もない。
 それは、終わりの時の困難から離れ、「自国第一主義になって、イスラエルを守る行動を取らなくなる」ことを示唆していると受け止めることが出来る。
従って、「アメリカファースト」も、結果的に聖書の預言に沿った行動となると言えよう。
●2019年、次のことに注目が必要!
①ロシア、イラン、トルコ、リビヤ、エチオピアらの動き:イスラエル攻撃の備えをする。
②アメリカの動き:特に中東から手を引く。
③欧州軍の結成と強化。「獣」の登場。

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二、屠られる子羊*イザヤ53章)
1)創造主の愛の極限
●元旦礼拝、2019年最初の礼拝の前半で、私は、大変厳しい世界情勢を話した。これらは、不思議なことに日本の新聞、テレビでは報じられていない。しかし、聖書に書かれている預言に沿った動きが次々と起こっていて、終わりの日の近いことがわかる。
 今日の聖書箇所は、最初にお読みいただいたイザヤ53章であるが、実は、この章は、「旧約聖書の最大の福音書・キリスト預言」である。それも、「十字架の贖い」という最大のテーマを最も明確に語っている。にもかかわらず、1章で、2018年の正解情勢をお伝えしたのは、「終わりの日が近いが故に、特に、早くキリストの救いを受けて欲しい」という強い願いによるものである。
2)「わたしのしもべは栄える」*52:13)
●これまでも見てきたように、イザヤは多くの箇所で「処女から生まれる」「ダビデの根株」「わたしのしもべ」なるメシヤ=キリストを預言してきた。
例えば、「見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める。・・・」40:10)「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」40:11)
●42章では、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に広義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。・・・」*1,2)ともある。
●35章でも、次のような「救いのわざ」がもたらすものを具体的に教えておられる。
「神は来て、あなた方を救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。・・・」4-7)
この記述は、二千年前に来られたときに、すでに一度実現しているが、続く35章8-10節にある記述を見てもわかるとおり、これは正確には、終わりの時の新しい天地での様子である。つまり、キリストは、永遠の癒やし、救いを与えて下さる事を教えておられ、一度来られたときはそれを少しだけ見せて下さったのである。
●もう一カ所、大事なキリスト預言を書いておこう。これは、53章と強い関連がある。
*25:9-10)「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。」
これは、24章23Bにある「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」に続くので、エルサレムの山で「死を滅ぼす」との預言である事がわかる。
3)しかし、「その姿は、人の子らとは違っていた」*52:14)
●53章は、52章のラストからの続きである。
●52章7―8節では次の明るいことばにあふれている。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しい事よ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。」
●しかし、シオンに帰られる主は、13節でも、まだ「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる、」とあるが、14節では、突然大きな変貌を見せる。
「多くの者があなたを見て驚いたように、-その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた-・・・」と。

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三、罪過のためのいけにえ*53章)
1)さげすまれ、のけ者にされる*53:1-3)
●3節の、「さげすまれ、のけ者とされ、人が顔をそむけるほどさげすまれ」・・・それは、むち打たれ、唾をかけられ、罵られ、嘲られる主のお姿であった。
ここで、大事なことは、イエス様が迫害されている姿を見て、多くの人は、次のアンダーラインの言葉のように受け取っていたと言うことである。(そうでない人も少しはいた)
*4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
●エルサレムの神殿が崩壊したあと、それを見た多くの人たちは、ユダヤ人が不信仰だから、彼らの神が怒ってこのように裁きをされたのだと嘲ったとある。同じ論理で、イエス・キリストは、自分勝手に「自分を神、神の一人子と自称し」それが主の怒りを買ったのだと嘲ったのである。しかし、それはひどい的はずれであった。
2)しかし、かれは私たちのそむきの罪のために・・・*5)
●5節からはイエス様がなさった事、そして受けている十字架刑の真の意味が語られる。
1)その刑の苦しみは、「私たちのそむきの罪のために、刺し通され」5A)
2)「私たちの咎のために砕かれた」・・・のだった。5B)
3)更に、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、」「彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた」のである。
●元は、私たちに原因がある!*6A)その罪を、主はイエス様に背負わせられた!
1)私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」6B)のである。
3)苦しみの数々*7-9節)
●7-9節は、逮捕され、むち打たれ、嘲りを受け、最後の十字架に付けられた主の苦しみを克明に預言しているが、これらの記述が全て実現したことは新約聖書に詳細に書かれていて、皆さんご存じである。
イザヤ53:7-9節を見ながら、新約聖書の記述も見て欲しい。
*マタイ27:29-31「それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に足を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。『ユダヤ人の王さま。ばんざい。』また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」
 この後の記述を見ると、「くじを引いて、着物を分け」、「頭を振りながらののしり」、「神の子なら自分を救ってみろ」とあざけったとある。35-41)
4)それは主の御心だった*10-11)
●このような苦しみとあざけりを受けるが、イザヤ書53:7節からを見ると、彼は何も言わないで耐える。「彼は苦しんだが、口を開かない」とある。まるで、ほふり場(とさつ場)に引かれていく羊のようであるとある。
●しかし、それは主の御心だった。
*11)「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころだった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
この身代わりの刑こそが、私たち一人一人、そして全人類のそむきの罪を赦すための贖いの刑であった。贖いとは、奴隷の代価を払って買い戻すのと同じで、イエス様自身が代価となって下さって、私たちを死からいのちに招いて下さったのである。これこそが、
「エルサレムの山の上で死を滅ぼす」と言われた25:9-10の約束の実現であった。
5)復活の主がご自身を見て、取りなしをする**11-12)
●更に、11節の3行目には、(彼は)「激しい苦しみのあとを見て、満足する」とあるが、これは死後に復活されて、ご自身のなさったことに満足すると言うことであり、さらに12節の5,6行目には、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」とある。私たちの救いのために罪の許しを主に祈って、取りなして下さるのである。
この贖いこそが、私たちのための創造主の愛である。父とイエス様に感謝して、今年一年を再スタートしたい。●お祈り

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