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6、12月30日(日)イザヤ49章18節
「礼拝説教原稿―⑭2018.12.30聖書箇所:イザヤ49章8節 泉南聖書教会 大寺俊紀
「恵みの時にあなたに答えた」
―年末礼拝―

初めに:先の礼拝は、『クリスマス礼拝』として、『講演会』を安井師にお願いした。幸い、お一人が参加して下さった。あと数人が来て欲しかったが、翌日には多くの方々が来られたから、よしとせねばならないでしょうね。
今日は、今年最後の年末礼拝であるが、二日後の元旦礼拝もあるので、いつもの3分の2位の長さでさせて戴いた。

一、わたしは始めであり、終わりである*44:6)
1)高らかな宣言
●先週はクリスマス礼拝であったが、その間に、イザヤ書も進んでしまった。この二週間の間にも素晴らしい「語りかけのことば」が沢山出ていたので、それらを振り返ってみたい。
①44章では、「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。」という素晴らしいことばで始まっている。
まず、この呼びかけのことばの凄さ、そして愛に満ちていることに驚く。このような呼びかけが他にあるだろうか?詩編139篇でも、「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」13)「私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」15-16)とあった。
⇒聖書が教えることで、私たちに取って一番大事なことは、「私たちは、創造主によって組み立てられていること、しかも母の胎内にいるときから見て下さっていること」この安心であり、救いに定めて下さっていることである。
②この素晴らしい愛の方、力ある造り主は、イスラエルに向かって「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」と言われる。*2-4)~これは、肉のイスラエルだけでなく、私たちにも言って下さっている。
2)「わたしのほかに神はいない」*44:6-8)
●万軍の主はこう言われる。6-8節)「わたしは初め(αアルファ)であり、終わり(Ωオメガ)である。わたしのほかに神はいない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれがわたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。」「恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。」
⇒この7節のことばに大切な意味がある。「わたしの他に神はいない」という宣言は、この「未来予言」と言うことが大切な役割を担っている。
実際、世界中の全ての宗教で、未来を予言して、~それも数百年~千年前に預言されて、全てその通りになったと言うことは一度も聞いたことがない。
「彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ」と言われるとおり、他には一切ない。誰も出来ない。イザヤ書だけでも、「アッシリヤからの攻撃から守り」、「バビロン捕囚とそこからの帰還」も預言された。それらは全て実現した。古くは、イスラエルは「エジプトからの脱出」をアブラハムの時代(400年以上前)から預言されていた。
次の45章1節の「クロス」の名前についても、イザヤが書いた年代は、アッシリヤの時代であるにもかかわらず、次の時代のバビロンに捕囚を受け、その70年後にメド・ペルシャに解放される、それをするのはクロスであると、名前まで預言されているのである。
⇒だから、主は、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。他にはいない」(*45:32)と力強く宣言なされるのである。
3)バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。*48:20)
●44章で、「恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。」と諭された主は、48章3節でも、再び教える。「先に起こった事は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した。」と言われる。だからわたしを信じよ。わたしを信頼し、委ねよ、と。
さらに44章6節では、「わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。」とも言われ、14節Bから15節で、カルデヤ人(バビロン)に苦しめられるあなたがたを救い出すために、わたしはカルデヤ人に立ち向かうと約束される。
*48:14-15「主の御腕はカルデヤ人に向かう。わたしが、このわたしが語り、そして彼(メディア王クロス)を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行う事を成功させる。」
さらに、48:20節で、「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。『主が、そのしもべヤコブを購われた』と言え。
⇒、ユダは、この後(約100年後)、バビロン帝国に捕囚を受ける。国の主立った人物は全て鎖につながれて奴隷となって連れ去られるのである。国に残されるのは、仕事も、土地も財産も何も持たない『賎民』と呼ばれる民だけ。しかし、この悲しみの後に、再び連れ返される。ユダは回復する。残りの民は国を復興させる。宮も立て直される・・・そのような約束をすることにより、今後の苦しみに耐えなさいとこうして励ましておられるのである。

二、恵みの時に*49章)
1)生まれる前から召し・・・
●今日の中心である49章は、実に優しい言葉であふれ、慰めとなることばがあふれている。今年の最後の礼拝にふさわしい聖書のことばである。
48章から始まるユダへの慰めのことばは、49章ではもっと熱意あふれることばとなり、主が愛のことばを掛けられる。これらは、直接的にはユダの民へのことばである。しかし、53章にもある通り、主の愛は、ユダにとどまらず-と言うより、ユダを通して、主を求める民全てに語りかけて下さることばとなっている。だから、私たちは、全ての主を愛し、信じる民、私たちへのことばとして聞くことが出来る。
*1B「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいるときから、私の名を呼ばれた」
*3「そして、私に仰せられた。『あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。』」
➡現代のキリスト教神学の中心は『置き換え神学』となっていて、『これら全てのイスラエルは、教会、クリスチャンのことである。恵みはイスラエルから取り去られ、教会に置き換えられた』と教えられるが、それはとんでもない間違いで、私たちは、このイスラエルへの主の愛と恵みは変わることはないと考えている。
~(置き換え神学の特徴は、聖書よりも神学を上に置く傾向が強い。だから、聖書の創世記=6日間の天地創造も、進化論に置き換えている)~
➡イスラエルへの愛は変わらず、私たち、クリスチャンにも愛は与えられているのである。この49章のことばも、実際にバビロン捕囚後70年で実現したし、紀元70年のイスラエル崩壊も、約1900年後に国家が再建されている事をみても、主の約束が変わった、移った、置き換えられたと言う教えは間違っているとはっきり言える。
●この主の召し=生まれる前からの召し、母の胎内にいるときからの召し=は、私たちクリスチャンへの召しでもあると教えられる。主は私たちを母の胎内にいるときから私の名を呼ばれたのである。何という恵みだろうか!
●詩篇139篇15-16の「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」とも重なるが、まだ地上に生まれていなくて、その一日もないうちに、私のことが記されていたとは、本当に驚くべき事である。『この人はどのように生きるのか』全部を生まれる前から知っていて下さる。これほどの恵みはない。
2)江戸さんへの聖霊の働き
●24日のコンサートで語って下さった江戸聖一郎さんの証でも、『母の胎内にいるときから教会に行っていた』という話は、クリスチャンホームに生まれた故のことばであるが、~実は、24日の江戸さんの言葉を聞いていたとき、このことばは、聖書の詩篇139篇と同じだなと思った~青年になって、徐々に教会から離れ、大学生活を機にかなり離れることとなった=離れたいと願っていて成功した。しかし、不思議なことに、パリに音楽の学びに行くと、やはり、パリにある日本人教会のことを、自分から調べて出かけてしまった・・・とのことだった。
更に、ある時期、パリの生活やことば、音楽的にも行き詰まり、練習もしんどくなって、今後に希望が持てない時期があったという。ところが、ある日、大変暖かい、優しい想いに包まれ、急に心に平安が訪れ、それ以後、聖書を学びたいと思い、洗礼も受けたが、以後、不安も亡くなり音楽の学びもしっかり出来るようになって、その後は(立派に主席で卒業して*注は大寺)今日まで安定して続いているとのことであったが、それは、『はっきりと聖霊様が臨んで下さって導いて下さった』と理解することが出来た。
➡だから、この49:1Bのことば、49:5の次のことばも、江戸さんへのことばでもあり、私たち一人一人へのことばでもあると言える。江戸さんは、母の胎内にいて礼拝に行っていたことを初めから見て下さっていた!・・・なんと素晴らしいことではないか!
*49:5B「私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。」
3)イスラエルは諸国の民の光とされる*49:6C)
●49:6Cには驚くべきことばがある。「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てまでわたしの救いをもたらすものとする。」
●このことばこそ、「イスラエルは教会に置き換えられた」とする置き換え理論を否定する明確なことばである。イスラエルは諸国の民の光として輝き、地の果てまでその光を届け、救いをもたらす者となる、大切な働きをするのである。
➡又、このことばは、メシヤ=キリストの役割でもあるが、小さくても、私たち一人一人も同じ役割を受けていると捉えて歩んでいくことが必要である。
4)恵みの時に、わたしはあなたに答え・・・*49:8A)
●更に主は言われる。
*8)「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。・・・」
●24日に伺った江戸さんの証しでは、「不安の時に」、主が励まし、答えてくださった。1週前の16日の晩餐会でも、八木さんが証をされ、「悩み、苦悶する中で主の救いが与えられた」事を聞かせていただいた。私たち一人一人もみな同じである。
Ⅱコリ6:2でも、このことばが引用されている。「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに今は恵みの時、今は救いの日です。」
5)「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」*16)
●最後に、もっと強い印象を与えてくれる、次のことばを一緒に読んで終わりたい。
*49:14-16「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた。』と。
『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。』
手のひらに私たちの名を刻んでくださっている!・・・ここまで、主は私たちを愛してくださっている!このことを心に刻んで、これからも感謝と愛を持って歩んでいきたい。
●祈り」
*写真は24日のコンサートでお話(証)をされた江戸聖一郎さん

5、12月16日(日)イザヤ40章1-11節
「礼拝説教原稿―⑬2018.12.16泉南聖書教会 大寺俊紀
「荒野で叫ぶ声」
―アドヴェント礼拝―

初めに:先の礼拝は、インターネット礼拝で、三橋牧師の説教の日が10月でしたから、残念ながらアドヴェント説教ではなかったですが、しかし、「主はただ中に住む」という事は、ソロモンへの約束だけでなく、私たちへの約束でもあり、先日の「インマヌエル」預言と同じキリストによって成就した約束です。
又、今日の聖書か所も大変わかりやすく、素晴らしい箇所です。全二回とは違い、今日は40章だけ話します。

一、優しく語りかけよ*2)
1)「慰めよ」と言われる主*1)
●アッシリヤ撤退を見た後のことば:40章のことばは、アッシリヤがユダ全土を攻めて、城壁のある町のほとんど全部を落とし、残るはエルサレムだけとなっているところに、大軍がエルサレムを包囲し、主の励ましの言葉通りにアッシリヤは一夜にして18万5千人の兵士を無くしたという大事件=奇跡を見せていただいた直後のことばである。
●唯、主のことばは、「ユダの救出」が全てではない、39章では、なんと、アッシリヤ後のバビロン時代の更なる徹底した裁きの預言もなされている。
*39:6「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、蓄えてきた物がすべて、バビロンへ運びさられる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。」
➡BC701年に、アッシリヤによるユダへの最後の攻撃があり、アッシリヤは敗退して急速に勢力が弱まる。そして、約100年後にはバビロンが帝国として巨大な勢力となる。そのバビロンがユダを攻めて、「捕囚」を行うのはBC606年(~536年)とされているから、このイザヤを通して与えられたバビロン捕囚の預言は、約100年前に預言されていたということになる。
2)ユダの残りの民を慰めよ!?
●「アッシリヤからは守られたが、バビロンの攻撃からは守られないで捕囚を受ける」この39:6の厳しい言葉の次には、40:1からの「慰め」のことばもある。
何故、そのような硬軟両方のことばが出されるのだろうか?
➡アッシリヤが責めて来た当時のユダの王ヒゼキヤはイザヤを通して語られる主のことばに従い、アッシリヤに降伏せずに主の救いを待ち続けた。だから、守られた。
しかし、その後のユダの王たちの罪は再び増大し、ますます酷くなり、イザヤも(伝承によれば)迫害を受け、鋸ぎりでひき殺されたと言われる。そして、マナセ王の最も激しい偶像礼拝によって、主の怒りは頂点に達し、ユダへの裁きは確定した。・・・但し、以前からの約束通り、一部の者は「切り株」のように残されるのである。
だから、40章はこれらの「残される者」へのことばとなる。
*40:1-2「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムにやさしく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」
➡聖書のことば、主のことばは、常に人間社会の歴史と時空を超えて、色々な年代のことが、交互に語られるからとても面白い。
40:2の「その労苦は終わり、その咎は償われた。」は、約100年後に与えられるバビロン捕囚からの解放を指しているが、このバビロン捕囚は、まだ起きていないことである。さらに、「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」とはいつのことかわからないほど先の事であり、同時に、「キリストの十字架の贖いによる救いの完成」という事も指している。バビロン捕囚にあうが、70年後に開放される、と同時に、ユダには救い主が来られ、人類への救いが完成するという「二倍」の恵みがあるという事であろう。
しかし、これは、二倍どころではない。もっと大きい恵みである。ただ、まずはキリストの来臨(初臨)と言う主の恵みを大事に語って下さる。次の3節を見よう。
3)荒地に呼ばわる者*40:3-5)
*40:3―5「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者がこれを見る。主の御口が語られたからだ。』」
●これは、本当にすごいことだと思う。「すべての者が見る、主の栄光が現わされる・・・」このような素晴らしいことが預言されている。
即ち、栄光の主をすべての人が見ることが出来る日が来るのである。そして、その日が来る前には、それを声高らかに宣言する、呼ばわる者が登場するという。
●ただ、このことは、21世紀のように、世界同時に宇宙中継で拡散されるのではない。ずっと大昔だから、告げるのは、ユダヤの「荒野で叫ぶ者の声」である。
➡皆さんご承知のごとく、このことばは約700年後にイスラエルで実現した。叫ぶ者は「バプテスマのヨハネ」だった。
➡いつも言うように、ある人物が、この後700年後に登場する、その直前にそのことを告げる者が登場する、こういうことは、聖書以外には一切ない。聖書が永遠の神(創造主)によるものであるという最大の証拠の一つである。そして、聖書は常に複数の連れ合いを持っている。40:3のことばは、新約聖書に登場する。
*マルコ1:2-4「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。【主の道をまっすぐにせよ。】そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。』・・・」
●「大路を平らにせよ。」は、象徴的な意味で言われている。
「大路」とは、主の来られる道を広く、平らにせよ、つまり、「皆が遜って、受け入れる準備をせよ」との意味である。
その後の、「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる・・・」も同じで、人の心の高慢を取り去り、低くなる時に、救いが与えられることを教えている。地球そのものの物理的な変化を言っているのではない。

二、創造主だから可能!
1)他にもたくさんある「連れ合い」
●証言と言うものは、複数なければ成立しない。
*ヨハネ8:17「あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。」
*申命記19:15「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」
●複数の証言とは、聖書の中で連れ合いがあるということとなる。まず、聖書自身がこう宣言している。
*イザヤ34:16「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」
➡その視点で見ると、「マルコ1:2-4」のことばは、700年前のイザヤ書のことばの連れ合いであり、複数の証言となっている。また、ヨハネ1章全体のことばも、バプテスマのヨハネについて詳細を書いていて、イザヤ書預言通りであることを保証している。
その一部を紹介しよう。
*ヨハネ1:6「神から遣わされたヨハネと言う人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」*8)「彼は光ではなかった。ただ、光についてあかしするために来たのであった。」
同22「そこで、彼らは言った。『あなたは誰ですか。私たちを遣わした人々の返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。』「彼(ヨハネ)は言った。『私は、預言者イザヤが言ったように、【主の道をまっすぐにせよ】と荒野で叫んでいる者の声です。』」・・・
2)時代を超えて一致する=何故可能か?
●聖書の連れ合い、特にイエス様についての預言と証言は多数あり、皆複数のことばがあり、連れ合いがあり、その真実性を保証しているが、何故そのようなことが可能なのか?それは、ただ一つ、聖書を与えて下さった方が「永遠に存在されている方=創造者である」という事に他ならない。
●そのことに気づくことが大事であるとして、主はこの章でも、この後に、18節からそのことを強調しておられるが、その前に、「呼ばわれ」と言う者のことば、「良い知らせを告げる声」の中身を見たい。

3)神(創造者)のことばは永遠に立つ*8)
●なぜ、完全な連れ合いを持つか、複数の証言を立てることが出来るか、それも時代を超えてである。その説明、宣言が、6-8節になされている。
*40:6-8)「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
「永遠に立つ」とは、真理として確立するという意味である。
4)良い知らせを告げる者への命令*9-)
●3節の、「荒野に呼ばわる者の声」への命令が9節からある。
*9)「シオンにより知らせを伝える者よ。高い山に上れ、エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声を上げよ。声を上げよ。恐れるな。ユダの町々に言え。」で始まる。
*40:10「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」
11「羊は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」・・・
●12節からのことばは、「主の偉大さを知れ」という意味で、主を否定する人間の小ささを教える。「だれが手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。・・・」と
そのことばは、「主の霊、悟り、公正の道筋、知識、英知」などと続く。
そして「すべての国々も主の前ではないに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる」のである。
➡だから、次の叱責のことばとなる。
「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をそんな似姿に似せようとするのか」、と。
●そして19節からは、人間による「偶像礼拝」の愚かさを指摘する。

三、目を上げて、誰がこれらを創造したかを見よ!
1)「あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。」*21-22)
●18節から始まる主の宣言は、「主はどのような方か、どこにお住まいか」と言うことを教えている。それは、叱責のことばから始める・・・
*21)「あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。・・・」と。そして、どのようにされているのか、とお住まいの環境を説明する。
*22)「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これらを天幕のように広げて住まわれる。」
即ち、主から見れば、我々はいなごのように小さい者にすぎない。
➡それなのに、人間は主を「だれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と、偶像となぞらえている愚かさに怒りを持たれる。
●更に主は、ご自身の偉大さを教える。
*「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」
➡この「万象を数えて呼び出し」とは、宇宙の天体や動植物、全被造物のことである。全宇宙の天体が創造主によって造られたことを教え、「精力に満ち」とは、宇宙規模のエネルギーだと言われているのである。実際、そのような方がいなければ、宇宙は誕生することがなく、一定の秩序を持ち、維持されることもあり得ない。
2)「だからヤコブよ、イスラエルよ」・・・*27-31)
●「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか」、と呼びかける。彼らは、『わたしの道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。』と、つぶやく。
しかし、主が聞いていない、見ていないことはない。「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」
「疲れる者には力を与え、精力のない者には活気をつける。・・・主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」とある。
➡イスラエルもヤコブも見捨てられたわけではなく、主が見ていないのでもない。彼らを励まし、残し、再生させる。そして、二倍のものを与える方である。それはイエスキリストとなって、実際に登場する救い主の約束として与えられている。彼らはそれに気づかなければならない。全人類も同じである。

●祈り

4、12月2日(日)イザヤ24章21-23
礼拝説教原稿 泉南聖書教会 大寺俊紀
「主のみこころ」

―裁きと救い―
初めに:先々週の礼拝は、イザヤ9章からで、イエス様がガリラヤ育ちとなることの預言であった。その後の預言を順番に見たいと思うが、10章以降のことばの中心は「周辺諸国への裁き」である。いくつかの注目点があるが、まず、高慢と偶像礼拝のへの裁きである。又、周辺諸国だけでなく、イスラエルの偶像礼拝にも同じことをなされると言われる。そして、裁きについては、特にアッシリヤとバビロンに注目したい。

一、諸外国への怒りの杖
1)イスラエルの選び
●10章以降は周辺諸国への裁きが宣言される。ここで、よく出される疑問がある。創造主なる神は、何故周辺諸国を裁かれるのか?そもそも、何故イスラエルルを選ばれたのか?である。それは「不公平ではないか」「えこひいきではないか」との反発であろう。
●「何故イスラエルを選ばれたか?」という事では、しっかり説明するとそれだけで一時間は必要であるが、要点だけを先に上げておきたい。
①ノアの洪水後にアダム、セツの信仰を受け継ぐ人を捜されていた。そして、アブラハムなる一人を見いだされて選ばれ、約束を与えた。彼は当時の社会での偶像礼拝全盛の中で、唯一「創造主を恐れる」信仰を持つ者であると判断された。~、その後永年の間彼の信仰が試された。
②アブラハムから生まれる子孫の中でも、同じ信仰を持つ者に「選び」が継承されていった。例えば、イサクの子のうち、長男エサウは相応しくない行動を取り、次男ヤコブに長子の権利が与えられた。
③ヤコブはイスラエルと名が改められ、その子孫からイスラエル民族が選びの民となった。
④エジプト移住後400年がたち、民は増えたが、預言の通り奴隷状態であったので、モーセによって奴隷から解放され、荒野で十戒と律法が与えられ、選びの民としての訓練を受けた。荒野で、モーセ、主に反抗した民は裁きを受けた。長い労苦を経てようやく約束の地・カナンに入ることが赦された。無条件に恵みを受けた訳ではない。「選びの民としてふさわしくなるように、」大変な訓練を受けている。
① 400年後にイスラエルの統一国家が与えられるが、その後腐敗、堕落すると王国は分裂させられ、更に、周辺諸国に侵略され、北王国は崩壊する。南ユダも捕囚を受ける。
② それらを通して、主のみこころが示される。イスラエルも、周辺諸国も、信仰が悪ければ=偶像礼拝をすれば裁きを受けることは同じである。但し、悔い改めれば赦される。
これは、イスラエルだけでなく全人類同じである。但し、イエス様は、イスラエルの民から来られると予定されたので、イスラエルには特に厳しいと同時に、絶滅しないようにと、常に「わずかな者」は残されている。
③ 残された一部のイスラエルを通してイエス様が来られ、その救いは、今度は「全人類に」広げられる。イスラエルは、そのための役割を担って来た。(担わされてきた)
2)アッシリヤの役割*10章)
●そこで、最初に登場するのはアッシリヤである。アッシリヤはイザヤより150年前から、帝国は拡大し、イスラエルはアッシリヤに貢ぎを治め始めていた、BC734年頃には、北イスラエルを攻撃し、北部の人を連れ去った。13年後のBC721年に、北は捕囚され、王国は完全に陥落し、崩壊させられた。その数年後もセナケリブはユダを攻めてきた。46の城壁のある都市が崩壊、20万の捕虜を連れ去った。このとき、主はアッシリヤを用いて北イスラエルを崩壊させたと言われている。それは次のことばである。尚、アッシリヤの最後の攻撃(失敗に終わる)はBC701年である。
*10:5-6「ああ、アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるわたしの憤りのむち。わたしはこれを神を敬わない国(北イスラエル)に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」
➡しかし、アッシリヤ自身は自分のわざが主によることを知らずに、自らを誇る。
*10:7-11)「なぜなら、彼はこう思っている。『わたしの高官はみな、王ではないか。カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、サマリヤとその偽りの神々にわたしがしたように、エルサレムとその多くの偶
像にも私が同じようにしないだろうか。』と。」
➡「エルサレムとその多くの偶像にも」とのことばは、私自身、最初は主のことばだと思ったほどであるが、アッシリヤが、エルサレムの偶像礼拝を罰するというのだから、不思議である。アッシリヤ自身も偶像礼拝の国でありながら、こうして、他国の偶像礼拝をあざけっているのである。そこには、自分たちは、本物の神だとの自惚れから来ているのである。
だから、次の12節では、そのアッシリヤの高慢を裁くと言われている。
●10:10-11節)「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。・・・』と。
3)アッシリヤの高慢と主のわざ*36-37章)
●アッシリヤの攻撃と裁きは特筆されるものであったので、この後、36-37章でも詳細が語られる。これはヒゼキヤ王の第14年であった。アッシリヤの王セナケリブが全ての城壁の町を攻めてこれを取った。そのあと、何とセナケリブが将軍のラブ・シャケを使って、エルサレムを罵った凄い演説が、まるで演劇の舞台のようになされた。しかし、その内容は、「アッシリヤの神とイスラエルの神のどっちが本物か、今に見せてやる」と言った挑戦のことばである。「いったい、おまえは何により頼んでいるのか。」4)「おまえは私に『われわれは、われわれの神、主により頼む』という。そんな主とは、ヒゼキヤが高き所と祭司と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサムレムに向かい『この祭壇の前で拝め』と言ったそういう主ではないか、と。」36:7)
更にラブ・シャケは、次のように主張する。これは「宗教戦争」の様相を呈している。
「今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に『この国に攻め上って。これを滅ぼせ』と言われたのだ。」36:10)
●そして、「降参せよ」と責め立てる。「ヒゼキヤ(ユダ王)にごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできないと。」14)
➡ここで、大事なことばが出る。
36:18)「・・・国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王たちの手から救い出しただろうか。・・・」20)「これらの国々の神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」
➡これらのことばの後に、イザヤはヒゼキヤ王の家来たちに、「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたがたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒瀆したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。私は、その国で彼を剣で倒す。』」
➡この後、ヒゼキヤは主に祈るが、アッシリヤの王たちが、すべての国々を廃墟にし、その国の神々を火に投げ込んだのは事実ですが、それは、神ではなく、「人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。・・・」と言い、
「今、私たちを彼の手から救ってください、そうすれば、地の全ての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」と祈る。
➡そして、36節では、「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を打ち殺した。・・・」となるのである。そして、アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、ニネべに帰り、その神に拝んでいるときに彼の子が剣で打ち殺した。
➡このアッシリヤへの対応は素晴らしい。このことを通してみこころを示しておられる。

二、バビロンへの裁きと主のみこころ*10:20-22)
1)主のさばきは異邦人だけではない
●アッシリヤを始め、この後、周辺祖国への裁きが描かれているが、裁きは一貫しており、
いわゆる「えこひいき」はない。イスラエル、ユダなら裁かれないということはない。
既に、北イスラエルはアッシリヤによる攻撃が許され、北は721年に壊滅した。南ユダも、エルサレムを除く諸都市は全部攻め取られていたが、ヒゼキヤ王の時のイザヤの指導があり、ユダの指導者たちが主に従ったから、ほんの一部であるが残されたのである。
➡このこと、裁きから残される者があることは、10章20-22ですでに約束されていた。
*10:20-22「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの逃れた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって頼る残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。」
➡この10章のことばは、11章の素晴らしい「自然界の回復のメッセージ」につながる。
つまり、主は裁きをなさるときは、真に素晴らしいものを再生させるためにされるのであり、破壊しつくすのではなく、へりくだる者を残して、彼らを再生の中心に置かれるのである。
2)バビロン(13章)、(14章は次章へ)
●イザヤの時代、アッシリヤが世界の支配勢力であり、バビロンはその支配下にあった。その後、バビロンはBC605年にバビロン帝国と呼ばれる世界勢力となり、ユダを捕囚するという主のご計画を担当するが、BC539年にメディア・ペルシャの手に落ちた。イザヤはこのバビロン帝国の滅亡について、それが主の手によるものであることを、こうしてバビロン勃興の100年前から預言していたこととなる。
現代の聖書を疑い否定する研究者たちは、これがイザヤの手によるものでなく、後代の歴史家が書いたものだと主張するが、イザヤが13:1で特にそれを宣言している。又、メド・ペルシャの破壊は、「全能者から来る」と宣言され(6)、「主の日」(9)であり、主ご自身が、メド・ペルシャを奮い立たせて、バビロンをソドムとゴモラのようにすると言われる。
(13:17-22)
➡13:1)「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。・・・」
➡13:17-19)「見よ。わたしは彼らに対して、メディア人を奮い立たせる。彼らは・・・
そして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄であるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。
●しかも、この予言は更に、バビロンを打ち砕くメド・ペルシャの王の名前を挙げている。それは、驚いたことに、ユダのバビロン捕囚からの解放となるから、大変なことである。
*45:26-28)(P1198)「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧舎、わたしの望む事をみな成し遂げる」と言う。エルサレムに向かっては、「再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」
*45:1:「主は油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。・・・」
*45:13「わたしは勝利のうちに彼(クロス)を奮い立たせ、彼の道をみな、平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。」
➡そして、この45章は、次の決定的な宣言となる。
*45:22-23A「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことは出来ない。」
●モアブ(15-16)、ダマスコ(17)クシュ(18)エジプト(19)、ドマ、アラビヤ(21)は省略。

三、アッシリヤ、バビロン=サタンへの裁き*14章)
1)それは、サタンへの裁き*  )
●13章のバビロンへの裁きに続き、14章では、「暁の子、明けの明星」=サタンへの裁きが描かれている。それは、アッシリヤ、バビロンの背後にいて、彼らを操るのがサタンであることを示している。
●サタンは、元は「暁の子、明けの明星=ルシファー」とも呼ばれていたが、「どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。」とある通り、「天使長のひとり」として活躍してきた者であった。しかし、「あなたは地に切り倒され」ている。
➡その理由は、13-14節のことを心に思ったからであると記されている。
「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
●「神の星々のはるか上に」と「北の果てにある会合の山」のことばは、その続きの「いと高き方のようになろう」とのことばに結び付く。
➡そして、その働きは主のさばきを受け、「よみ」に、「穴の底=黄泉の穴の底タルタールス」に落とされるとある。尚、穴の底(タルタールス)は、キリスト再臨後のこと(千年時代)と一般に言われる。
●一番大事なことは、サタンは「堕落した天使」「天の父の座を狙った=全宇宙、全被造物への支配を狙った」元天使長だという事である。
2)アッシリヤ、バビロンも、諸国への裁きも主によるサタンのさばき
●サタンのその後の活動は、天から落ちされたサタンのあがきであり、主への反抗であるが、それらはことごとく失敗に終わる。
ダニエル書10章を見ると、主の御使い(ガブリエル、ミカエルら)」は悪の勢力と戦っていることが書かれている。それは、サタンによるものと書かれている
*ダニエル10:20「そこで、彼(ガブリエル)は言った。『私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシャの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシャの君がやって来る。』
➡このことばは、サタンに従う悪霊どもも、「ペルシャの君、ギリシャの君」として悪鬼、魑魅魍魎(チミ モウリョウ)し、主の御使いが彼らと戦っていることがわかる。
●だから、このことは、現代、終末の悪霊の行動の激しくなることが推測できる。彼らは、自分たちの終わりが近いことを悟り、今の世界に「多数の独裁者」を送り、また、世界を混乱させる指導者や団体を多数作らせ、世界戦争を引き起こさせ、キリストの再臨を防ごうとするであろう。

●祈り

3、11月18日(日)礼拝原稿
礼拝説教原稿―⑪2018.11.18聖書箇所:イザヤ9章1-7節 泉南聖書教会 大寺俊紀
「ひとりのみどりご」
―キリスト初臨の預言―

初めに:先週の礼拝は、「礼拝説教原稿」を見ながら聞いていた人はとても驚いたと思う。「一体、今はどこを読まれているのか、全然原稿と違う」、と。と言うのも、タイトルが「終わりの日に」で、イザヤ書から終末を話すものであるが、久しぶりに84才の奥野さんが来られたので、70%以上入れ替えて、とことんかみ砕いてお話した。お陰様で―体調も良かったのだと思うが―話をずっと聞いていて下さって、終わったときに聞くと「良くわかった」という事でほっとしている。

一、イザヤに示された夢
1)苦しみの後の希望*3-8章
●先週2章をお話ししたので、3-8章までの箇所を簡潔にまとめておきたい。
*3章)26節の次のことばに要約される。「シオンはさびれ果てて地に座す。」それは、8節にある通り、エルサレム、ユダにも主のさばきが来るためである。
*3:8節:「これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いとが主のご威光に逆らったからである。」
*4章)残された者は、聖と呼ばれるようになる。
*4:2「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みな、エルサレムでいのちの書にしるされた者である。」
*5章)北からの攻撃と捕囚:2節、「良いぶどうを植えたが酸いぶどうができた」とある。
*5:13「それゆえ、わが民は無知のために捕え移される。」と予言。
*5:24「彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。」と理由を教える。
*5:26「主が・・・地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。」と「地の果て」=北からの攻撃を示唆。
*6章):イザヤの「召命」:イザヤは高くあげられて、王座に座しておられる主を見ている。
➡そこでイザヤは、「ああ、私はだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と言った。
➡セラフィムのひとりが飛んできて「あなたの不義は取り去られた。罪も贖われた」と言う。
そして、『この民に言え』「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」、「自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように」との不思議な命令を受ける。
➡イザヤが「いつまでですか」と聞くと、「主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所が増えるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。・・・しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」11-13)と、「ユダのバビロン捕囚」と悔い改める一部の民=残される民」、「聖なる切り株」とのキリストの預言がなされる。
~「聖なる切り株」とは、南イスラエルは、今後も不信仰で、主の怒りを受けざるを得ない。=切り捨てられる。
しかし、全てが切り捨てられ、ゼロとなって消滅するのではない。悔い改める者を残す=残される民。そして、その切り株のような所に新芽が生える。聖なる切り株とされる。
➡その切り株から生える新芽はユダからの約束の救い主の誕生である。=キリスト預言
*7章):「エフライム=北イスラエルにアラムがとどまった」という報告があり、ユダの王は動揺した。(7:2)そこで、主はイザヤに仰せられた。それは、王アハズに会い、恐れるな、と。アラムはユダに上って行って、攻め入り、わがものとし、タベアルの子をユダの王にしようと言っているが、主はこう言われている。「そのことは起こらないし、ありえない。・・・」7-9)シリアとイスラエルは滅びユダは救われると、イザヤはアハズに断言した。
➡さらに、「あなたの神、主から、しるしを求めよ」11)と言われ、アハズが、「私は求めません。主を試みません。」とこたえたが、イザヤは次のしるしとなることばを告げた・・・
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」*14節)
➡マリヤの婚約者ヨセフは、御使いから「名はイエスと名づけなさい」と言われていたから、名前としてはイエスであり、「インマヌエル」は、「神が人とともにいる=人となって来られる」との意味である。
2)「インマヌエル」「処女受胎」というしるし
●このイザヤ7章の「インマヌエル予言」は、約750年後に実現した。
●マタイ1章20-23節(P.2)で、主の使いがマリヤに現れ、次に婚約者ヨセフにも夢の中で現れ、「妻マリヤを迎えなさい」、彼女はまだ処女であるが、「聖霊」によって子どもを宿す。その子の名をイエスと名づけなさい。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と教える。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
➡これらのことばを聞いたヨセフは、主の使いに命じられたとおり、その妻(マリヤ)を迎え入れ、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなかった。そしてその子どもはイエスと名づけた。24-25節)
~イエス様は永遠におられる創造主なる父から、人類に与えられた方=救い主だとわかる。

二、その他のキリスト預言
1)イザヤ書*1-11章のまとめ)
(1)6:13)「聖なるすえこそ、その切り株」=ユダからキリストが与えられる。
(2)7:14)「インマヌエル」処女が身ごもっている=母マリヤの処女受胎
(3)9:6)「一人のみどりご」=平和の君、ダビデの王座に着くなど
(4)11:1~)「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。・・・」
=エッサイはダビデの父、ダビデの子孫の意味。
11章では、再臨後の新しい地球の約束=自然界の回復、肉食の消滅

2)多くの側面、意味、役割を持たれるキリスト
●今後のイザヤ書のメッセ―ジの計画もあり、今日は、このあとインマヌエルに絞って話すことになるが、イエス・キリストは多くの役割をもってそれを果たされる方であると書かれている。
簡単にまとめてみると、「新しい地球の約束=自然界の回復」11章、「再臨後の審判」24章、「死を滅ぼされる」25章、そして、シオン「エルサレム」の礎となる方である。
3)「小さい者として」来られる
●審判、再創造をされるという偉大な方であると、「天体規模」の大きさで、地上にお姿を現し、人間が畏敬の念を持ってそれに従う…これが自然な考え方である。そして、それが、ユダヤ人が躓いた最大の理由でもある。
➡ソロモンが、伝道者の書に書いていたように、「すべての人に同じ結果が来る」=つまり、信仰者も、不信仰者で悪人も同じように死んで終わる。(そう見える)又、イエス・キリストも、我々人と同じ「姿かたち」を取って来られた。だから、天から来た創造主、絶対者には思えない。(見えない)~このことが一番の躓きとなった。
➡しかし、仮にキリストが、「天のお姿のままで」地上に来られていればどうか?~ここに主(父)の一番の意図がある。
① 絶対者、全能者の天の姿のままで地上に来られると、「人間は正しい信仰を持てない」
② 更に、「私たちの罪を贖う」と言うことが出来ない。
なぜなら、①の場合、人は、信仰によって求めるのではなく、「恐れ」だけで従う=従わされることとなる。喜んで、感謝して愛することはない。
③ 更に、絶対者の荘厳なお姿では、我々の罪のために身代わりとなって死ぬことは出来ない。罪も悪も全て断罪する方が、身代わりの死を遂げることは出来ない。
④ だから、「ひとりの普通の人」として、処女マリヤと聖霊の子として産まれる必要があった。
⑤ ここに、一人一人の「信仰のかぎ」がある!
イ)「絶対者として、天から炎とともに降りて来られたら信じる」は、信仰ではない。それは、有無を言わせず確認させられているだけで、もう遅い。
ロ)創造者はどんなに愛してくれているかを、「目に見えない段階で、ことばを聞いて信じる」ことを「信仰」とされる。しるし、証拠を見てから信じるのはもう遅い。
*以前聞いた話であるが、ある疑い深い男性がいて、妻を信じられないからと、会社に行きながら一日中電話をしてきて、現状を知りたがると言う。一日中、家にいる妻を信じられない・・・この猜疑心の異常に強い人であるが、「しるしを見なければ信じない」という人も、実際は同じ過ちを犯している。

三、ひとりのみどりご*9章
1)「インマヌエル」に主の愛がある
●キリストの訪れ=臨在には、二つの面がある。一つは、子の預言から約700年後、二つ目は、まだ起きていない「再臨」であるが、イザヤ書は、キリストの来臨の真の目的は二度目の来臨(再臨)による新天新地と永遠の時の素晴らしさを伝えることにあるが、この二度目の来臨(再臨)によってもたらされる「至福の世界=永遠の世界」を実現して下さる方がイエス様であることを伝えるために、第一段階として一度イスラエルに来られることをまず教えている。救い主として信じることを求めておられる。
●そこで、一度目の来臨であるが、それは、「ひとりのみどりご=嬰児」=人間の子として来られるのである。先ほどから触れてきたように、天の王座のままの偉大なお姿で来られるのではない。
●「ガリラヤの光栄」:1-2)
イスラエルの北部にガリラヤ地方がある。ガリラヤ湖で有名で、南部と違い降雨量も比較的多く、北部にヘルモン山脈もあり、水資源が豊かであるが、最も北からの攻撃を受けやすい地域である。私たちが2010年に訪問した際も、隣のゴラン高原からの永年の攻撃があったことをきいた。歴史上の多くの帝国は、殆どが北から攻撃している。(南はエジプトだけ)
9:1の「苦しみのあった所に、やみが無くなり、…辱めを受けたが、後には・・・異邦人のガリラヤは栄光を受けた。」とあるのは、数千年続いてきた周辺諸国や帝国の侵攻によって苦しんできたガリラヤ地方に栄光の光がさすことを教えている。
➡勿論、イエス様はガリラヤで誕生されるのではなく、誕生地はベツレヘムであるが、両親はガリラヤ人であり、エジプト逃避行のあとは、ヘロデ・アンティパス王の手を逃れて、ガリラヤに戻って住み、30才までを過ごすという事となった。=ガリラヤ人として、イエス様の育ったところとしての栄光を受けるのである。
この「ガリラヤ育ち」ということは、こうして明確に書かれているにも拘らず、殆どのユダヤ人はこの箇所を無視し、「ガリラヤから何の良い者が出ようか」と言って、イエス様がガリラヤ人であり、「ガリラヤからはメシヤは来ない(生まれない)」と否定していた。
➡しかし、マタイ4:13-16で、両親がナザレを去って、カペナウムに来て住まわれたことは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。と書かれている。
~このガリラヤ育ち―ガリラヤ人として知られたという事は、主が、ユダヤ人を混乱させ、否定して殺害に至らしめるための一つの重要なポイントとしておられたことがわかる。
●*6-7節)「私たちのために」「私たちに与えられる」6)
「ひとりのみごりご」は誰のために来るのか、与えられるのか?それは、「私たち」である。王侯貴族、支配者層、宗教指導者層のために来られるのではない。
「庶民、名もなき、罪深い、弱い」民のために、特権階級やエリートのためでなく、「救いを必要としている絶対多数の大勢の民衆のため」であると言える。
2)「万軍の主の熱心」がこれをなし遂げる*7)
●イザヤは更に、そのみどりごがなすことを教える。
●「主権はその肩にあり」:肩に主権があるという事は、権限、実行力、絶対的な力を与えられているということである。
●「その名は、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」と続く。
「不思議な助言者」:イエス様は「助言者」でもある。それは、罪と死からいのちに向かう、最も大事な時に導いて下るほか、日々の祈りとみことばの学びの中でも、信じ求める信仰者に助言して下さる、~この世から見れば~実に不思議な助言者である。
私自身の場合をとっても、信仰から受洗、そして開拓に至る道筋で、主の助言なしには今日の私も、泉南聖書教会もないと思っている。聖霊派➡根本主義派➡福音派となり、現在は特に教派にこだわらず、教派行動(セクト主義)にならずに、主の導きに従って歩んでいることや、同じ姿勢で、主の導きに従って歩んでいる三橋牧師とともに提携できつつあることも、又、迫害を受けて苦しんでいた兄弟姉妹を複数支援してきたことも、皆、主の導き、祈りの答えに沿ってきたものと思っている。
「力ある神」:私たちの信仰する対象は、2千年前にイスラエルで教えた一人の男性(イエス様)を教祖とするというレベルの話ではない。イエス様は、本来死のない永遠の天におられ、天地万物を創造された「力ある神」である。万物を創造され、現在も保持され、そして、万物を更新、再創造もされる方である。
「永遠の父」:力ある神という事は、「子なる神」と言うレベルにとどまる方ではない。「父、子、聖霊」と言うのは、人間にわかりやすいようにと、教会で考え付いた三位一体との表現の一つの呼称であり、三位一体ということばそのものも聖書にはない。イエス様ご自身が言われている通り、父とイエス様は一つであり、イエス様を見たものは父を見たのである。即ち、キリストは子であるが父でもある、一体の方である。
「平和の君」:また、イエス様は平和、平安の方であり、平和を与えて下さる方である。最大のものは、一人一人の罪を、その十字架にかけて赦して下さった、その赦しである。
3)万軍の主の熱心
●「その平和は限りなく」:イエス様が与えて下さる平和、平安は一時的なものではなく、永遠のもの、変わらないものである。
「ダビデの王座について、その王国を治め」:これは、イスラエル人に向けての言葉かもしれないが、主が建てられた最高の座という意味であろう。
「さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える」:その王座は、裁きと正義がなされる。
「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」:以上全てが、「万軍の主の熱心」の強い願いであり、ご計画である。それはヒトの熱心(熱意)、人の思いではない。創造主の熱い思いから出ているという素晴らしい言葉である
4)みどりごとして来られたこと
●最後にもう一度「みどりご」として来られたことの意義、目的をまとめると、それは、「私たちが小さくなること」=「へりくだること」を求めておられるという事である。
全宇宙を作られた偉大な方が、「みどりご」として、へりくだって来て下さったこと、しかもその後罪人(死刑囚)となって下さった、それほどへりくだられたことを、私たちも学ばなければならない。
➡私たちは、仕事、地位、名誉、財産、良い行いなど・・・それらを誇って、キリストの救いを信じないということがあってはいけない。ここまで遜って、小さくなって来て下さった創造主なる神=イエス・キリストを信じること、それが一番大事なことである。そのことが一番喜ばれることである。

●祈り

2、11月11日(日)イザヤ書2章2節「終わりの日に」
泉南聖書教会 大寺俊紀
「礼拝説教原稿―⑩2018.11.11聖書箇所:イザヤ2章2節 泉南聖書教会 大寺俊紀
「終わりの日に」

初めに:とうとうイザヤ書に入りましたね。とても嬉しいです。イザヤ書は旧約の福音書とも言われます。至る所に主のみこころ、イエス様の預言、それも、一度目の来臨(初臨)だけでなく、再臨後の預言迄ふんだんに書かれています。今日は、先週とは逆で、イザヤ1、2章のことばを中心にして、他の書も参照していきたいと思います。

一、「ああ咎多き民!」*1章)
1)イザヤとイザヤ書について:
●イザヤとイザヤ書:預言者は、ことばを伝える説教者ではなく、主がアブラハムと結ばれ、(創世記12章15章)シナイ山でモーセを介して(出24章)、またダビデと結ばれた契約=協定を順守することを促すために派遣されている。従って、預言者がイスラエルの不従順のゆえにイスラエルやユダに下る災害についてなされる警告は、それは、「何百年も前から与えられていたもの」が成就しようとしていると言っている。同様に、契約は従順への報いとしての祝福も明確に述べている。問題は、声を聞く民の応答次第である。
●イザヤは北イスラエルがすでにアッシリヤによって滅ぼされたとき、南ユダの預言者であった。ウジヤ王の死んだ年に召命を受けたが、彼の見た幻の一部はそれ以前のものであったとされる。(6:1)ラビの伝承では、マナセによって死刑に処せられた。(のこぎり?ヘブル11:37)又、ヨアシュ王の子孫で、王室の血を引いた宮廷人であった。
●イザヤより前の150年間、アッシリヤ帝国は拡大し、BC840年にはイスラエルは、アッシリヤに貢ぎを治め始め、BC721年には、サマリヤは陥落し、残りの者も捕囚となった。更に、数年後アッシリヤのセナケリブはユダに責めてきて、46の城壁都市を破壊して
30万人の捕虜を連れ去り、最後にイザヤが老年になったBC701年、アッシリヤの大軍はエルサレムを攻撃したが、御使いによる奇蹟があってそれは止められ、エルサレムは守られた。*イザヤ37章36-38節(P.1184)
●イザヤ書の写本はみな失われ、今残っている聖書のうちで最古の写本はAD4―5世紀のもので、旧約聖書としては、BC3世紀に作られたヘブル語旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳聖書)を採用している。
現存するヘブル語写本の最古のものはAD900年頃の、マソラ本文と呼ばれる。マソラ本文は、多くの異なった系統の書記たちにより、それ以前の写本から写された、役立つすべての写本を比較して作られた。これらの写本の間にある差異は非常に少ないので、ヘブル学者たちは、現在の聖書の本文は、元の本文と本質的には同じであると意見が一致している。
●死海写本:そして、1947年、エリコの南11キロ、死海の西1.6キロの洞窟で、遊牧民(ベドウイン)が迷子になった羊を捜しに洞窟に入り、巻物が入っている壺を発見した。これが死海写本として知られる。この中にイザヤ書があり、ヘブル語旧約聖書のどの写本よりも千年古い、BC2世紀に作られたもので、私たち4人も、エルサレム旅行の際にそのコピー全部(7メートル)を展示しているのを見せていただいたが、それは、現代の聖書のイザヤ書と本質的に同じであると聖書学者たちは結論付けした。
写真:クムラン洞窟

2)あなたがたの国は荒れ果てている*7)
●イザヤの最初のことばは、「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」で始まる。そして、3節:「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っている。しかし、イスラエルは知らない。」との印象的なことば、それは、主がイスラエルを大きくし、育てたにも関わらず、主に逆らったとの2節の続くことばである。
4節からのことばも、イスラエルへの嘆きのことばである。
「ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。あなたがたは、なおもどこを打たれようとしているのか。・・・」4-5B)

●7節にあるように、国は荒れ果てている。町々も畑も火で焼かれ、食い荒らされている。
➡しかし、主は言われる。
「しかし、シオンの娘は残された。」8)「もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」
それは、北イスラエルが既に滅亡し、(BS721)南ユダも諸外国の侵略、略奪を受け続けていたときである。その時、わずかに、エルサレム(シオン)だけが残されていたが、それは、「万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残され」(*9)ているという事である。
だから、イザヤは、主の声を聞きなさい。主の憐れみを求め、主のことばに従いなさいと民に叫んでいる。
3)主が耐えられないという「偽善のいけにえ」*15-17)
●イスラエルの民は、当時、どのような生活、信仰生活を送っていただろうか。また、何故主が怒っていたのだろうか。それは、13節からの悲痛なことばとなっている。
*13節「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙―それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日―会合の招集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。14節では、新月の祭りや例祭を憎むと言われる。
*15節では「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈り増し加えても、聞くことはない。」
その理由は、「あなたがたの手は血まみれだ。」「「わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け、悪事を働くのをやめよ。」*16」「善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」などと続く。
➡これの具体的な罪の指摘を見ると、まさに、シナイでモーセを通して語られた律法への違反であり、違反をしながら、形式的な礼拝やささげ物をしていることへの主の怒りであることがわかる。
4)「あなたがたの罪は、緋の様に赤くても雪のように白くなる*18」
●主は、イスラエルに対して、怒りと裁きを伝えるのでなく、具体的な和解のことばを与えて下さる。
それは18節の印象的なことばである。
「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」
➡だから、喜んで聞け、悔い改めよ!と主は言われるのである。19-31)
この、「雪のように」「羊の毛のように」という表現は、特に美しく、印象的である。
*19)「喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることが出来る。」
*27)「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。」

二、「終わりの日に、主の家は・・・」*2章)
1)「終わりの日」とは?2:1)
●2章には、二つの両極端なことばが並立している。
私の聖書には、AとBと記しているが、次のように分けている。
A:1―5節+17-18節
B::6-22節。但しそのうち、17-18節はAの続き、展開を記しているから、17.18はAグループにも入れることが出来ると言えよう。
●Aはいつのことか?
「終わりの日」とあるが、今後のことと同時に、長期的な見方も少しできる。
「終わりの日は、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る、」
「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えて下さる。私たちはその小道を歩もう。』
それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」
2)「広義」では新約時代だが・・・
●一つの解釈は、既に一度主の山=エルサレムに来られ、そのみおしえが世界に広がっている、世界中の多くの民がそのみ教えに耳を傾け、心はそこに注がれている。また、現代では、多くの聖徒らはエルサレム=聖地旅行を夢見、実行しているから、ある程度はこの新約時代のこととも言えよう。
●しかし、この2千年は、彼らが激しい主の怒りの裁きを受けたときであり、6節に始まる「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた」時でもある。
この捨てられるときは、終わりの時の一つもう一つの面、現象であるが、同時に、終わりの時の、再臨のときの地上の患難と、白い御座の裁きの中の「羊と山羊に分ける裁き」=の最後の審判のときでもある。
3) 全ての国々がそこに流れて来るとき*2)
●先週、ギャラリーペルソナに展示した20号6点の作品は、この「すべての国々がそこに流れて来る」時を描いた作品である。
黙示録21章24.25.26節では、次のように書かれている。
「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」「都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」「こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」
~これこそ、永遠の時の、至福の光景である。もはや夜もない。
「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」3-5節)

●この時、もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕えている。
又、彼らは、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている、ともある。
●再度地上に来られて、主がなされることの最初は、苦しみからの解放、病の癒しであると言われる。
*イザヤ35章4C~7節(P.1179)同時に、地球は回復し、再生させてもらえる。
「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。その時、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。」
➡そして、天から下ってくる都(エルサレム)には、「大路」があり、「贖われた者」はそこを歩むことが赦されるのである。
*イザヤ35:8節「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。」
●65章17節からは、更に、主は「新しい天と地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。・・・」とあり、「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、・・・」(22)と続く。
「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわれない」25)と主は言われる。
➡主が備えて下さっているのは、このような恵みである。喜び溢れるばかりの再創造である。
●この主の恵みの一つの象徴的なことばが次である。
+イザヤ2章4節)「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
➡この偉大なことばは、ニューヨークの国連本部の石に刻まれているという。つまり国連・人類の目標は「武器のない世界」「絶対平和の世界」である。これは、人類には到底できないことと思えるが、主はそれをなされると宣言して下さっている。

三、一方でなされる厳正な裁き
1)主は捨てられた*6)
●主のことばは「恵み」だけではない。残念ながら、不信仰、或いは偽りの礼拝、偶像礼拝などを許容する方ではない。愛なる方は、厳しい方でもある。「来たれヤコブの家よ」と呼びかけられる主であるが、6節には次のことばとなる。
「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。」
その理由は、「ペリシテ人のように、東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。・・・その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造ったものを拝んでいる。・・・」とある。
●そして、2章では、次の決定的なことばが書かれている。一体このことはいつの時代のことを書いているのだろうか。
*イザヤ2:20)「その日、人は、拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。」「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避けて、岩の割れ目、巌の裂け目に入る。鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値打ちがあろうか。」
2)これはいつのことか?
●同じ記述がヨハネの黙示録に二度登場する。一度目は、6:12-17節
「そして月の全面が血のようになった。そして天の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
天は、巻物が巻かれるように、消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人とが、ほら穴と山の間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。『私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と子羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。』御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
➡御怒りの大いなる日:
「天は、巻物が巻かれるように、消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」
●これらは、主の再臨に伴う、地上の悪への裁きの光景である。救いの完成の後に、それは、誰も耐えられないような、厳しい裁きが伴うことを私たちは忘れてはならない。これらのことの確証として、主はイスラエルの歴史を通してそのみこころを教えておられる。
➡約2千年間の国の喪失。世界への離散。そして、1900年ぶりの再生。
イスラエルと私たちを愛するがゆえに悔い改めを求め、愛と救いを備え、教えられているが、同時に裁きがあることも警告して下さっている。救いを信じ、怒りを受けないようにこれらをしっかり覚えておきたい。
●祈り」

1、11月4日(日)伝道者の書12章1節「あなたの若いうちに、あなたの創造者を覚えよ」
「礼拝説教原稿―⑨2018.11.4聖書箇所:伝道者の書12章1節 泉南聖書教会 大寺俊紀
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」

初めに:こんにちは。前回に続く伝道者の書です。12章は、木曜日に当たりますが、伝道者では、この12章を省くことは出来ないので取り上げます。それは、「創造者を覚える」ということが、当教会の土台であり、出発点、柱でもあるからです。

一、その後のソロモンの変化*9-11章)
1)同じ結末が来る!? *8章)
●8章6節で、「すべての営みには時とさばきがある」と言ったソロモンは、その後の11節で、「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の心は悪を行う思いで満ちている。」、又、「罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている、悪者にはしあわせがない。・・・」と語る。11.12)
➡確かに、救いや裁きは今すぐには目に見えない。裁きの宣告もない。だから、多くの人は、他人に見つからなければ、悪いことをすることもある。
又、「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることができない。」17)と続くが、ソロモン自身は神のみわざに気づくという大きな変化を見せている。そして、多くの人が神に気づかない理由を探し求める。
2)同じ結末=「死」が来るからか? *9章)
●「悪者ども」(=ソロモンのことば=)が、神を敬わない理由は、9章2節では、「同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。
~同じ結末とは、善人も悪人も「死」という同じ結末だから、悪人は悪を平気で行うということを言っている。確かにそういう風に見えないことはない。
●ここで、ソロモンは死についての希望があるかどうかの問題に行きあたる。
まず、9章の段階では、ソロモンの理解は次の通りである。
*5「生きている者は自分が死ぬことを知っている。死んだ者は何も知らない。彼らには何の報いもなくなく、彼らの呼び名も忘れ去られる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われるすべての事において、彼らには、もはやもはや永遠に受ける分はない。」から、この段階では、「死」は永遠の滅びに過ぎないとの理解である。
●だから、7-9節では、飲み食いや、愛する妻との生活を楽しむがよい。-それしかないー
*10節)「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」との「よみ」に関する貴重な言葉にたどり着く。
➡「よみ」について:ある異端では、この10節のことばを「拡大解釈」して、「死後には一切の希望がない」知識も、知恵も、働き、企てがないから、死は完全な「滅び」であり、希望がゼロであるから、キリスト再臨後には私たちエホバの信者は、「王として」死なずに千年王国を生きる体に変えられる。(しかし、キリスト教会は地獄に行く)と教える。
➡異端の場合は、常に聖書全体ではなく、一部をゆがめて解釈して間違った解釈をする。
●よみとは:黄泉、陰府、ハデス。「地獄はゲヘナ」
聖書全体が教える「よみ」とは、次のようなところである。
① 生前、イエスを信じていなかった者は全て、「最後の審判」までの一時的な場所としてよみ(ハデス)に下る。そこには「慰めの場所」と「苦しみの場所」がある。更に、穴の底「タルタールス」もあり、サタンが閉じ込められるところ。一人一人がどちらに行くかは主が決めることである。
② 旧約時代には、天国に挙げられた人は二人しかいない・エノクとエリヤ。
③ 旧約時代のイスラエルの民の、信仰を持っていた人と憐れみを受けた者は、天国ではなく、ハデス=よみの慰めの場所に行った。だから、信仰の父アブラハムもいる。(ルカ16:17-31)異邦人も全てよみに行った。
④ イエス様が来られた際に、よみに下り、そこにいる人に福音を伝え、慰めの場所にいた人たちを連れて天国に凱旋した。彼らは、今は天国に挙げられている。(Ⅰペテロ4:6)
⑤ 新約時代になり、クリスチャンはよみに行くことはなく、すぐに天に挙げられている。
⑥ キリスト再臨後、最後の審判のときには、「よみ」にいる人は、キリストの裁きの座に就く。それまで、よみでは地上のような働き=社会生活、文化活動、生産活動など一切=がない。ソロモンが言うのは、この部分だけである。(個人的な推測では、よみは地球内部の穴と思える。)
➡異端のエホバの場合は「信仰者でも天に挙げられない」で、かつ、「よみには行くべきではないから(よみでの生産活動が一切ない)」とエホバを信じることを教える。よみを曲解して教える。この「小さい間違い=愚かさ」は、実は小さくはない!
なぜ、こんな間違いを教えるのか?それは、イエス様の救いを信じて天に挙げられるという恵みを隠すために、このように、「死ねば無になるから、千年王国で生きるという目標」を教えるのである。これは、とても大きな嘘を教えること、信じさせることである。

二、死んだハエ=少しの愚かさ➡それは「小さくない!」*10章)
1)気をつけたい愚かさ
●10章1節には「死んだハエは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」とのことばがある。
これは、名誉、地位、財産、働きなどにおいてどんなに誇ることがあっても、キリストの救いを否定すること、「不信仰」「創造主を否定すること」などの一つの愚かさは、その人の全ての価値をなくし、愚かな者となることだという重大な指摘である。この「死んだハエ」とは、まことに言いえて妙であり、わかりやすい。
➡イエス様も次のように言われている。
*マタイ7:21-23「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入れるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
●ここには、教会、クリスチャンへのとても重大な警告がある。教会、牧会者、クリスチャンの働きは「その実、内容、愛」が問われる。外見、規模ではない。本当に大事なことは「父のみこころ」を行っているかどうかである。それは、形ではない。数でもない。
しかし、現実のキリスト教の世界を見ていると、反対の行動が多い。
例えば、ある創造論団体では、約20年間、一からスタートして真面目に働いてきた会長親子や副会長を除籍に近い形にし、「役員会に出席できない形にした」ことがあった。その時、知人のある献身者は、理由もなく離れさせられた。(除籍)それを実行した牧師たちは、「組織の改革とか、事務の効率化」などの名目を発表していたが、役員、委員会で主導権を取ったということである。仮に、運営内容に不備があるのなら、総会などで発言して是正すればよいだけではないかと思うが、実際は「実権を奪う=乗っ取る」ということになっていた。そのために、大変苦しんだ方がおられる。
●牧師でも、名刺などで、各種の団体や連合、連絡会、委員会などの会長、顧問などが列挙されている方がいる。何かの大会を開くとか、後援会結成、イベント、組織結成が必要な時は、大きな団体や組織、連合体の代表や顧問などを呼ばないとまとまらない。仮に弱小開拓教会などのミニ教会の牧師や宣教師などが中心にいると馬鹿にされるから、トップに置かない。それが、キリスト教界の常識であろう。パーティーやコンベンションなどで会った時でも、所属教団名、教会の規模などが全てで、「信仰の中身」は話すことも問うこともない。
➡これは、教会は、「組織を大きくすることと守ること」だけに関心を持つこととなる。同時に、「教団を守る」ことが中心となる。
又、それは、他教派との違いを明確にするための教会の神学が最重要視され、最も大事な「聖書はどういっているか」ということが疎かにされる危険性が高い。人間の解釈=神学が聖書に優先する、これほど危険なことはない。教会活動が盛んで、規模が大きくなっても、最も大事な主のみこころから外れる危険性があるからである。
➡その場合、「聖書は数千年前の古い書物であるが、神学は二千年間の知識の積み上げであるから、神学、解釈の方が優先されるべきである」となって来る。これが一番危険で、聖書を否定する聖書批評説に近づいている。
2)「預言」と「奇蹟」
●「預言」と「奇蹟」を行ったとのことばがある。「預言」は、一部、予言もあるが、聖書の解き明かし、解釈が中心である。現代では「創世記」と「黙示録」に解釈の違いが大きい。
➡創世記については、いつも述べている通り、「聖書記述通りの6日の創造」をゆがめて、進化論に沿って解釈する愚は避けたい。聖書歴史最大の罪、汚点となることは必定!
*ペテロは、創世記を否定する結果=6日の創造を非科学的と否定し、ノアの洪水も否定することで、キリスト再臨までも疑う終わりの時代の教会神学の間違いを警告している。
*Ⅱペテロ3:3-7)「まず、第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにおかれ、不敬虔な者どもの裁きと滅びの日まで、保たれているのです。」
~このあざける者とは、一般人ではなく、6日の創造とノアの洪水を否定するキリスト教会の指導者たちである。(彼らは聖書の知識を持っている。)創造否定の神学は、キリスト再臨も否定する神学となることを預言し、警告している。
➡黙示録については、神学、解釈を断定せず、主に委ねること、解釈によって教派間で対立する傾向からは距離を置き、常に慎重に主に委ねていくことが大事である。
●特に、ディスペンセーション理論には注意!特定の説に限定、断定しないで主のなさることを注意して見守ることがないと、大きな失敗をすことをペテロは警告している、
*Ⅱペテロ1章20-21節「それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

三、若い日に創造者を覚える大切さ
1)「あなたのパンを水の上に投げよ、・・・朝も、夕も」*11章1+6節)
●11章1,6節のことばは、「教会の伝道」としての真理を教えてくれている。
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないからだ・・・」と続く。
「パン」を、神のことば、イエス様のことばだと考えればわかりやすいし、各地で自然災害に被災した人への支援、貧しい国の子どもたちへの支援、イスラエル支援の意味もある。
●マタイ25章31-46節(P.53-4)は、「白い御座の裁き」と呼ばれ、キリストは、栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来て、栄光の位につく。~これは、千年王国が今後あるとすれば、その終わりの時のことで、「羊を右に、山羊を左に」分ける。
御国を受け継ぐのはキリストの座から見て右にいる羊たちで、左にいる山羊たちは、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」と言われる。46節には、「永遠の刑罰に入る」とある、地上の一般の犯罪人、不信仰者の刑ではなく、永遠の刑である。
*マタイ7:21-23の「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入れるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われたことと同じである。クリスチャン、役員、指導者であっても、山羊とされる危険性は大きいから、気をつけなければならない。
➡羊とされ、御国を受け継ぐ者は、「わたしが空腹であったとき、食べるものを与え、旅人である時に宿を貸し、裸のときに、着るものを与え、病気の時に見舞い、牢にいるときに訪ねてくれたからだ」と説明される。その時、その正しい人たちは、「いつ、あなたにそんなことをしましたか?」と疑問を呈し、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さいものたちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」とお答えになる。
➡そして、山羊とされる者たちへは、上の反対に、彼らにしなかったことだと言われる。
羊たちは、パンを水の上に投げた者たちであり、山羊たちは投げなかった者たちである。
➡これは、「支援献金」の大切さに通じることであろう。
●同時に、伝道の事、キリストのことばを伝えることの意味もあろう。
11章1,6節の「パン」に関しては、「伝道は各種の働き、賜物や奉仕者のいるものを、出来るものを多く展開する」ことの大切さも教えている。
➡この際に気をつけなければならない原則は、ニーズ、希望者、奉仕者があることは、全体として取り組むと言うことではなく、出来る人があれば、一部の少人数でも行い、関心のない方、参加しない方は「反対しない」ということが基本原則である。参加しない人が反対するという事があれば全てに行き詰まり、閉塞感が出てくる。~このことを覚えておきたい。
2)あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ。*12:1)
●説教の構成の仕方は色々ある。説教学による正統的なものは勿論書籍に書かれているが、進め方、構成はいくらでも変化が可能である。
今日の構成は、12;1の中心聖句からスタートするのでなく、ここを全体の結論として到達して終わるという形式にしている。12章までの話の中で説明をして、だから、12;1が結論であるということである。
●別の機会には、安井師は勿論、私も進化論と創造論を対比して話すが、今日は、ソロモンの思考をたどってきたので、その結論として、「創造主を覚えること」、このこと以外にないということである。
「主よ、主よ」と言いながら、御心を知ること、行うことがなければ、主のさばきで救いから取り除かれる。創造を否定する者は、主の再臨も否定することとなるから、最も厳しい怒りを受けることは間違いない。これらすべてが、聖書を創造主のことばとして確信することが始まりである。創造主を疑えば、全てに躓きが始まる。このことを一番大事にしたい。
3)創造に関する中心事項
●12;1に関して、創造主に関する重要点を少しまとめて終わりたい。
① 創世記1,2章の記述通り、一日24時間の一日としての6日の創造である。
② 創造主は永遠におられる方であり、全能の方であるから、「永遠の中で準備をされ、創造され、それを地球には24時間で一日の一日一日を決められたのである。(時間をも創造された方)
④ 出エジプト記20章には「7日目の安息日を教えるとき、主は、―それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」とある。
⑤ ノアの洪水も、主が再臨の教えの中で、それはノアの洪水の時と同じですと言われている。マタイ24:37「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」~イエス様自身の言葉
⑥ 世界中の地層の3分の2は堆積層であり、それはノアの洪水時に一気に堆積したと言える。(残り3分の一は、火成岩で、盛り上がった地層)
⑦ アダムとイヴは、最初から人の男女として創造されている。数十億年かけて、進化してひとになったのではない。*マタイ19:4-5「イエスは答えて言われた。『創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それをあなたがたは読んだことがないのですか。』
洪水と言い、結婚と言い、イエス様ご自身が創造を教え、進化を教えていない。このことばを否定することはイエス様のことばを否定する罪となる。
⑧ 進化論では最初のアダムの罪によって死が入り、最後のアダムの死によって命が入ったという新約聖書のことばが嘘になる。仮に、進化論の通りに人がアメーバーから進化したのなら、アダム誕生までに数えきれない死と進化、弱肉強食があったことになり、聖書のことばは「嘘」になる。
⑨ ヨブ記には、天地創造の記述が、現代科学の発見と同じであることを多く示している。
ヨブ記26:7「神は北を虚空(=宇宙空間)に張り(傾け)、地を何もない上に掛けられる。」地球が丸いことの記述も複数ある。水の循環も教えている。星座についても天文科学に沿って書かれている(38:31)。又、ヨブ記には、二種の恐竜が人に知られている。(4.:15-19)ベヘーモス。(河馬と訳されている)41章全体にも剣竜(レビヤタン)が登場する。
●他にも多数ある。

●祈り

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