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●以下は、8月21日と28日の礼拝メッセージのために作成した原稿であるが、資料として、こちらに保存する。

マルコ16章15-20節(P.103)+マタイ10章5-10(P.17)+マタイ28章16-20節(P.63)
「癒し、しるしは主のご命令か?-1」
―信仰によるいやしと、まことの創造主によるいやし-1

はじめに:最初に考えて欲しいのは、マルコ16章の最後にある「宣教命令」は、マタイ10:5-10節と28:16-20節の命令とどう違うか、何が違うか、その理由は何なのかということである。
イ) マルコ16:15-20は(要約)、「全世界に」「すべての造られた者に」「福音を述べ伝え」なさい。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」「信じる人のしるし・・・キリストの名による悪霊の追い出し」「新しいことばを語り」「蛇をもつかみ。「毒を飲んでも害を受けない」「病人に手をおき癒す」⇒大事なことは、20節で、「主は彼らとともに働き、み言葉に伴うしるしをもって」神のことばを確かなものとされた。
~これは2千年も継続しているか?~
ロ)マタイ10:5-10では、「病人のいやし」「死人を生き返らせ」「ツアラアトの者をきよめ」「悪霊を追い出し」なさいと命じ、次のことを条件としている。
①異邦人の道に行くな、②サマリヤ人の道に行くな、③イスラエルの家の失われた羊の所に行け、④金貨や、下着も持っていくな・・・~すべての時代に適応できるか?~
ハ)マタイ28:19-20「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」「父、子、御霊の御名によるバプテスマを」「命じておいたすべてのことを守るように」「世の終わりまで、いつも、あなた方とともにいます」~ここにはいやし、悪霊追い出しの命令はない~
⇒聖書は矛盾のない主のことばである。とすると、この三つの「宣教命令」の違いは何なのか、21世紀の私たちは、どう理解し、どう行動することが大事か、最後にまとめるので、その前の段階として多くのことを整理しておきたい。

一、様々な教えの「波」
1、カリスマミックス、リバイバル、力の伝道、第3の波・・
●従来の福音を伝道する(賛美と祈りと御言葉中心の)福音派に対して、伝統的な福音教理を信じることは同じであるが、「癒し、悪霊追い出し、異言」などの必要を強調する運動=波は20世紀から多く見られる。詳細は省くが、数万人が集まり、激しい音楽と熱気ある祈りと、異言の祈り。泣く人、笑い続ける人、倒れる人、猛獣のように吠える人が見られ、多くの病人が集められて「癒された」という報告がなされることもあり、教会が急成長したように見られる。ところが、実際は福音派の聖徒がそちらに移動しただけの混乱となっていて教会が成長しているわけでなく、しばらくすると熱が冷め、混乱によって激しく弱りきった教会となることが繰り返されてきた。
2、「いやしや奇蹟」は、キリスト教だけのものでない
●いやしや奇蹟の経験を重視する運動(キリスト教第3の波の人たち)は、ローマカトリック、プロテスタントリベラル派にも一致が呼びかけられている。
 しるしと不思議は、エジプトの祭司たちもしていた。仏教系、神道系の様々な新宗教、新々宗教、ニューエイジ・グループでも行われ、イスラム教の聖者と言われるババ・ファリドは、不治の病をいやし、死人を生き返らせ、ココナッツの木の実を金貨に変える、空中移動としたと言われる。カトリックではフランスのルルドやメキシコ市近くの寺院で癒しがされたと言われ、創価学会、天理教などでもあったと言われる。(真光教なども)
●ローマカトリックの権威が維持されてきた秘訣の一つは、「いやしの奇蹟」だった。彼らは癒しを用いてカトリックの正当性を主張してきた。フランスのルールデ(ルルド)での毎年1万5千人の癒しとの報告は「マリヤ崇拝の正当性」の主張に役立ち聖書の神信仰ではない。
メキシコの聖母グアデルーベ寺院のいやしの報告、旧ユーゴのメジュゴーエへも10年間に1500万人以上がいやしを求めて訪問している。ロシアでもあちこちで大々的に癒しの集会が実施、聖書とは無関係のテレパシーや心霊術も使う。日本でも、多くの宗教は癒しを売り物にしているという。
●つまり、癒しや不思議がなされるから「本物の宗教」「本物の神の働き」であると信じる危険を教えている。聖書も、そのことに気をつけよと繰り返している。
*申命記13:1-4「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなた方に告げたそのしるしと不思議が実現して、『さあ、あなたが知らなかった他の神々に従い、これに仕えよう。』と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。・・・」
3、奇跡の強調を非難されたキリスト
キリストは多くの奇蹟をなされたし、弟子たちにもその力を与えたと言われるが、それらを決して強調されず、今日の「力の伝道」「リバイバル運動」「カリスマ運動」などと反対に、絶えず神の国の福音に焦点を当てておられた。
*ルカ10:20「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからと言って、喜んではなりません。ただあなた方の名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
●ここで、大事なのは、「聖書理解の間違い」である。聖書理解に間違いがあると大きな違いが出てとんでもない「間違い=罪」を犯す事となる。だから、イエス様のなされた癒し、弟子たちの癒しをよく調べることが大事である。更に、「宣教命令」のことばの歴史的な意味の問題も大事である

二、「神のいやし」とは何か?
1、「奇蹟」とは何か?
●「奇蹟」とは、自然への創造主の超自然的な介入(特別介入)である。単に驚くべきことではなく、特別介入があるかどうかを見なければならない。
①創造主は、自然界をお造りになり、自然の法則も定められた。それは非常に理にかなっており、よほどのことがない限りそれは変えない。しかし、創造主は全能のお方であるから、いつもその法則に縛られる方ではない。特別の目的があり、自然の法則のままではその目的が達せられない時には、自然の法則を超えた、超自然なこと=奇蹟をなさる。だから、しるし、奇蹟とは「自然の力では説明できず、自然の法則に反した、神=創造主によってなされる特別の出来事」である。いつでも行うことは出来るが、いつもしてくださると決めつけることは出来ない。
2、自然のいやし、超自然のいやし
●病気になったことがない人はいないだろう。そして、殆どの人は回復する。その回復=いやしは、実は神によっていやされたのである。神=創造主は、通常の方法で、薬や医療(医者の施術)を通していやされている。薬も医師も、直接にいやすのではなく、一人一人に与えられている癒しの力を用いていやされるように働いてくれている。その体のプロセスは創造主なる神がお造りになっている。この「回復力」は自然のいやしと見えるが、神のいやしである。クリスチャンの医師は、「病気は医師が治すのでなく、本人の治癒力と神の力が治すのであって、私たちはその手助けをしている」と述べている。
●箴言17:22にある「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」の言葉通り、健全な生活や心の状態を通してもいやされるのである。 
3、「信仰によるいやし」と「神による奇蹟的ないやし」の違い
●「信仰によるいやし」と「神の奇跡的ないやし」とは厳密に区別が必要だが、通常それは混同されている。
「信仰によるいやし」とは、「何かを強く信じる心理作用によるいやし」で、信じる対象は創造主なる神とは限らない。偶像の神の場合もある。そして、「信仰によるいやし」はクリスチャンでない人が行っても作動するから、偶像礼拝につながることとなる。
「神による奇蹟的ないやし」は神だけがおできなるもので、この二つの違いを理解することが決定的な差となるから重要である。
4、信仰によるいやしと「ブラセボ効果」
●「信仰によるいやし」が効果を発揮する秘密はブラセボ効果であると言われる。それは、偶像の神の場合にも同じ効果を発揮する。
●昔の医師:薬が原始的であった当時は、医師たちは、どうして良いかわからないとき砂糖の錠剤や食塩の溶液や色のついた水を処方したという。それらには薬の効力がなかったにもかかわらず、多くの患者は、痛みが軽減するなどを感じた。これがブラセボ効果。
●現代の多くの医師たちは、全ての病気の恐らく70%はこのブラセボ効果によっていやし得ると考えているという。ブラセボ自体にはなにも効果が証明されていないが。それは単にその人が、効果があると期待するゆえに、またその人が、病気よりも回復を考え始めるゆえに効き目があると言われる。
 ある医師は、単なる砂糖錠剤でも、効果が出るとの信仰が脳を刺激して、痛みや、いくつかの病気、不調をいやす現象で、末期がん患者への実験でも、モルヒネは患者の3分の2に対して効果があり、ブラセボも患者の二分の一に効果がある。ブラセボは脳にだまして働きかけ、癒しがやってきたと思わせ、それに体が応答する、と述べている。
1993年7月号の臨床心理学評論誌で、アラン・ロバーツ博士は、「薬効的に効果のない薬を投与された6931人のうち、約3分の一が、その「薬」から「良い結果があった」と報告し、40%は「非常に回復した」と報告している。特に、「ブラセボは、血圧の降下や腸の潰瘍の治療や偏頭痛の軽減などに真の生理的変化をきたす」とも報告されている。
5、いやしの伝道者の「心理療法」
●癒しについては、「心理療法」の手法が用いられていることに注目が必要である。
長年にわたって、いやしの伝道者によるいやしを調査してきたウイリアム・A・ノーレン医師は、「いやしの伝道者が、『病気の人をいやす力が、私を通してこの人たちの上に注がれますように』という主旨のことを神に向かって劇的に叫び求めるとき、彼らは実は暗示の力を用いているのである」といっている。(今日における奇蹟、いやし、預言)(高木慶太テモテ・シスク共著)
●「いやし」「リバイバル」等が前面に出る伝道集会などでは、舞台装置や演出にこだわり、ロックコンサートのような雰囲気を作り、賛美リーダーや歌手が先導して長時間のコンサートが続き、会衆も殆ど立ち上げって、両手を挙げて参加する。また、ステージに数十人が上がって単純な踊りで動き回り、会場全体も動き回って踊る、そのような映像が今でもよく見られる。その上で、伝道者が、先ほどのような劇的な叫びをあげれば、そのドラマチックな呼び求めによって参加者の中の病人たちの、これまでうまく機能していない自律神経(消化、心拍、血圧などをコントロースするシステム)が影響を受けて、自律神経失調から起きている病気や症候がいやされることもおきる。
●「暗示」などを使った精神医学的な治療は、実際の医療現場では用いられることも多いと聞く。例えば、催眠療法についてある医師は、患者の20%は催眠状態において、麻酔なしで痛みの意識を失い手術が可能と言う。精神科医や心理療法をする医師たちはそのような患者を毎日何千人もいやしているという。ところが、医師たちは、自分に超自然的な力があるなどとは全く言わない。純粋に自然な方法で行っていると言う。
●すべての癒しが超自然的だと信じたい人は失望するだろうが、これらはすべてマインド・オーバー・マター(肉体を支配する頭脳)の支援のプロセスによって屡々起こる自然のいやしである。精神科医師たちは、自分に力があると全く見せないでこれらのことを常に行っている。それに引き換え、伝道者は、暗示を使い、舞台装置に手間暇をかけ、大掛かりに催眠療法の手法をいやしと伝道に用いている。これは好ましいことだろうか?
6、「ブラセボ効果、心理療法」でも、いやされるのは神(創造主)
●心理療法や暗示を用いる治療が「自然のいやし」だと書いたが、自然勝手に、気まぐれに起きることではなく、「マインド・オーバー・マター(肉体を支配する頭脳)の支援のプロセスによって起きる」とある通り、このシステムを組み入れて下さったのは、創造者なる神であり、もともと備えられているものである。だから、その効果は、宗教に関係なしでも、単なる医療行為としてでもなされるし、創造主と無関係の偶像の神々の宗教でも用いられる、ここに根本的な問題があることを忘れてはいけない。つまり、祈りや宗教的な熱狂によって神の奇跡的な介入なしにでも起きること=他宗教でも可能なことを、イエス・キリストの介入と宣伝することは危険だということである。他宗教でも、それを最大の売りにしているから、同じレベルとなる。
●では何が大事か、それは、「本当の奇跡的いやし」は、根本的な違いがあることに気付き、それを伝えることではないか。
7、心理療法、ブラセボ効果は万能ではない
●ブラセボ効果や心理療法などですべての病気がいやせる訳ではない。「信仰によるいやし」では治らない種類の疾患、それは「器質的疾患」と呼ばれる。一般に病気は器質的疾患と機能的疾患にわけることとができる。
①「器質的疾患」は、臓器や機関の組織が、機能できないほど破壊や損傷を受けた結果おこる病気で、「骨折」「神経の切断からくるまひ」「先天性の奇形、切断された手足、心臓発作、胆石、ヘルニヤ、癌などで、組織の明らかな異常はレントゲンや神経組織の検査に現れる。
②「機能的疾患」は、臓器や器官の異常がないのに、何らかの理由でそれらが正常に機能しないための病気で、「心因性の身体的欠陥」が多く含まれる。人間の精神的、感情的、霊的状態が体の臓器や器官の機能に悪影響を与えている。
●上の説明には但し書きがある。器質的疾患の一部は、風邪やねん挫などは、自然治癒力によってひとりでに治り、①②どちらの病気にも感情の様子が含まれるとのことで、①に対してもブラセボは少し効果がある。骨折の患者にも、心理療法で痛みを少なくすることや糖尿病患者のインシュリンを減らすことも可能。しかし、痛みが減ったからと言って病気がいやされたわけではない。
8、いやしの集会の問題点
●いやしの集会などでは、感情が高揚し、脳が刺激を受けてモルヒネよりも2百杯強い鎮痛剤と言われる「エンドルフィン」を神経組織に放出するそうで、それゆえ、人々は「痛みがなくなった」とあかしし。本当にいやされたと信じ、大いに宣伝される。しかし、エンドルフィンの効果は何時間か何日間後には効果が消えてしまう。
●だから、キリスト教会の一部がいやしの集会を開いていることは、その内容が問題で、器質的疾患のいやしでないものを「神のいやし」と宣伝することは、偶像の宗教と同じ罪を犯す事になる。
●キャンパスクルセードの伝道者アンドレ・コールは、いわゆる「いやしの伝道者」のいやしは、器質的疾患のいやしは一度もないと述べている。(骨折など)
●「信仰によるいやし」は、一定数の機能的疾患に対してのみ効果があり、器質的疾患はいやしていない。しかし、「信仰によるいやし」をする人はクリスチャンであってもなくても、機能的疾患だけ、しかも限られた数しかいやされていないのに、「あらゆる病気がいやされているような印象、幻想を与えている。しかも、それらは信仰の有無に関係なく出来ること(ブラセボ効果や暗示など)であるのに、「神によるおびただしい数の奇蹟が起きている(自分が起こしている)」との幻想を与えているという重大な罪を犯していることである。
●自分がいやしの伝道者であると自任する(公言する)人は、奇蹟が起こる前に、「器質的疾患」が存在したことを示す医学的証拠(生まれつきの盲人、歩行不可能、脊髄の重大な損傷、骨折など)を提出し、次に、奇跡が起こった直後に、器質的疾患がもはや存在しないことを証明する医学的証明をせねばなりません。更に、奇跡の後にもいやしが継続出来ていることも大事である。(いやしの集会では、集会後に痛みが再発することが多い。)
9、本当のいやし、奇蹟と言えない
●ウイリアム・ノーレンという米国の医師は、クリスチャンではないが、「いやしが今日でも存在することを証明しようという肯定的な意図をもって調査をし、「奇蹟を探求して」との書を書いた。彼は、米国の著名ないやしの伝道者を通して「いやされた」人々を二年間追跡調査して本にまとめた。癌であったがいやされたという8名、およびそのたの病気のいやし82名、計90名の氏名と住所を提供してもらって追跡調査をしたが、インタビューに応じたのは23名で、その結果、彼は、「ほんとうに奇蹟的にいやされた人は一人もいなかった。・・・私は奇蹟的ないやしをするいやしの伝道者にまだ出会ったことがない」と述べている。
 ノーレン博士は、更に、本当に重い器質的疾患はいやされていないとして、脊髄損傷による下半身のマヒした患者でいやされた人はなく、別の医師も、「すい臓がん、膀胱腫、手足の切断」等でいやされた事実は一度もないと書いている。
●私たちは、これらのことをよく理解し、更に、イエス様のなされたわざをよく学んで、その違いや意味を理解し、その上で、歴史を学びながら聖書を正しく理解したいと思う。

以下続編 2016.8.28礼拝説教原稿でもある 

三、キリストが行ったいやし、しるし
1、主のいやしは全く違う(レベルも質も)
●イエス様がなさったいやしを具体的に見てみよう。それが、いやしの集会でなされるものとどう違うかよく考えて欲しい。
●マタイ4章23-24節では、「あらゆる病気、あらゆるわざわいを直された」とあり、24節にも記述されているが、それは、選別をすることなく、「器質的疾患」も、「機能的疾患」もいやされたということである。具体的な記述は9章に中風の人のいやし、18節からは「会堂管理者の娘の死からの蘇生」、20節からは婦人病患者の女性、27節からは「盲人のいやし」が書かれている。11章5節には、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツアラアラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が述べ伝えられている」とご自身で語られ、その殆どが「器質的疾患」からの回復であることが分かる。
●ヨハネ9章1節から登場する人は「生まれつきの盲人」であり、眼に泥を塗って池の水で洗うだけで目を開かれている。ヨハネ5章1-14節では「生まれつきの足なえの男性」も「立ち上がって歩け」のことばだけで歩けるようにされている。何れも器質的疾患のいやしであることが最大の注目点。

2、「信仰」は癒しの条件でなかった!?
●殆どの宗教関係者がいやしを行おうとするとき、「信仰」を求めるはずである。それは、「信仰によるいやし=実はブラセボ効果、暗示療法」を狙ってのことであるが、うまくいかないときに、「信仰が足らないから」という逃げを作っているのである。時間がかかる場合も理由に出来る。しかし、聖書にある奇蹟的ないやしは、大多数は信仰を必要としていないことが分かる。
①ルカ8:26-39の「悪霊につかれたゲラサ人」は、信仰を表明する前にいやされている。またルカ17:11-19のいやされた10人のツアラアト(重い皮膚病)患者のうち、救いの信仰を持っていたのは一人だけだった。ペテロに耳を切り落とされたマルコスも信仰なく、主にいやされた。(ルカ22:50-51)
② 本人の信仰でなく、本人以外の人の信仰でいやされた例も多い。マタイ8:5-10の百人隊長のしもべのいやし。ヤイロの娘のいやしも(マルコ5:35-43)父親の信仰による。マルコ5:1-12の中風の人は、本人でなく、運んできた友達4人の信仰のゆえにいやされている。
③ 弟子たちが悪霊を追い出せなかったとき、キリストは、いやされる人の信仰でなく、弟子たちの、いやす側の信仰が薄いと言われた。
④ 福音書の35ある奇蹟のうち、10例だけ、その人の信仰が書かれている。しかも、その10の場合も、信仰が、奇蹟が起こる条件だとは書かれていない。また、残りの25のうち、少なくとも18例は、信仰と関係なく奇跡を行なわれた。
⑤ 「あなたの信仰があなたをいやしたのです」と言われたことは何度かあるが、この「信仰」とは、「イエスがメシヤ=救い主であるとの信仰」によって霊的ないやし(救い)の結果として、肉体のいやしも何人かに起きたと言える。

3、「信仰がないといやされない」との主張の根拠
●キリストを信じる信仰に導くことは大切である。しかし、信仰がなければいやされないと教えると、薬や治療によるいやしを否定することにもつながり、「信仰によるいやし」そのものがカトリックのマリヤ崇拝や他の偶像宗教でもなされていることと同じ道になることに気付かなければならない。
 この主張によく使われる聖書個所は、「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった」とのマタイ13:58の箇所であるが、並行記事であるマルコ6:5を見ると、そこにおいてさえ「少数の病人に手を置いていやされた」とあり、「郷里の人たちがイエスをメシヤ(キリスト)と信じなかったので。大きな奇蹟をなさらず、ただ少数の病人へのいやしをされた」ということである。
●「信仰がないと、いやされない」というのは、ブラセボ効果や暗示効果に依存し、効果があるとの「ある種の信仰=その宗教での信仰」が必要であることを知るが故のことと思われる。それは、同時に、「治らないときの」逃げ道を作っているのである。「いやされると信じなければいやされない」というのなら、それは前回説明した「信仰のいやし」であり、奇蹟的ないやしではない。神が人間の頭脳と体に、協力して働くように造られた故に起こる自然現象であり、仏教、神道、ヒンズー教、カトリック、イスラム、ニューエイジなど、殆どが用いている(利用している)ことであり、キリストの絶対性を否定することになる。

4、「即座の癒し」であり、「再発がない」=キリストのいやし
●父なるヤハウエ様と第二位格キリストの唯一絶対性を証しする多くのものの中に、イエス・キリストだけのいやしがある。それは「即座の」「再発のない」いやしである。
●キリストのいやしは瞬時になされ、病人は直ちにいやされ、数日かかって徐々に治るということは一切なかった。
●ただし、瞬時のいやしには4つだけ例外があった。(マタイ9:22-26、マルコ8:22-25、ルカ17:11-19、ヨハネ9:1-7)それらには意味や目的があり、数分後には完全にいやされている。マタイ9章の場合は、「私の娘が死にました。でも、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば生き返ります。」との会堂管理者のことばを聞いて、歩いて行き、到着してうちに入り、少女の手を取られると、すぐに娘は生き返って起き上がった。話を聞いて歩く時間がかかっただけであり、手を取られるとすぐに奇蹟が起きている。
◎ルカ8章の並行記事を見ると、(8:49-56)49節で、家から人が来て、お嬢さんはなくなったから、もう先生を煩わす必要はないと伝えると、これを聞いた主イエスは、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は治ります」と言われ、家に入って、手を取って、叫ばれると娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。周囲のものが完全に死んだことを知ってから蘇生させるという二段階を踏んで、一層その奇蹟を強く印象付けている
◎ルカ17章11-19の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われた10人が、「行く途中でいやされた」とあり、言葉を与えて数分後のことである。
◎ヨハネ9:1-7の場合は、眼に泥を塗られた生まれつきの盲目の人は、「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられ、池に行って洗うだけで目が見えるようになった。わずか数分後のことである。盲目の男にすると、場合によっては池に行かず、泥を塗られたことに腹を立てたかもしれない。池に行くことが彼の信仰を試みる目的であったのかもしれない。
◎マルコ8:22-25の場合、二つの段階を経ることに目的があると思える。第一段階で、その人の両目につばきをつけ、両手を彼に当てられて聞かれる。するとその人は「人が歩いているのが木のように見えます」と答え、キリストがもう一度両目に手を当てると、今度はすべてのものがはっきり見えるようになった。このとき二段階に分けられたのは、弟子たちを教えるためだった。
 このしるしの前には、イエス様は二度目のパンのしるしを見せているが、弟子たちは「パリサイ人のパン種には気をつけなさい」との言葉の意味を理解できず、パンを持っていないことについて議論していた。弟子たちがパンの奇蹟を見ながらもキリストの力をよく理解しておらないので、視覚教材のように、ご自分の力を繰り返し教えられたのであった。
●いやしの伝道者の場合は、自分たちのいやしが直ちに起こらないことを正当化するために、上に書いた聖書個所を利用するそうであるが、上の箇所はいずれも数分のちには起こっておりしかも完全である。主のいやしは徐々に起きることもなく、未完成もない。いつも完全になされているのである。また、いやそうと思っても出来なかったということもなく、不完全で終わったこともない。
●現代でのいやしの伝道集会では、奇跡が起こったと言われていながら、完全に治っていないケースが殆どだと言われる。病気や障害を持つ人が、いやされないまま帰っていくのが多いとも言われる。これはどう考えればよいのだろうか?

5、特別な条項設定をしない、キリストのいやし
●キリスト教でいやしの集会、伝道会を企画する人たちは、常に「特別な状況設定」をする。数万人入るアリーナやコンサート会場、豪華な舞台装置とバンド演奏に踊りや両手を挙げての参加。会場を特別な雰囲気にする様々な演出と激しい祈り。偶像礼拝の場合は、「塩やヒソップ、まさきなどの木の枝と水にろうそくや香料・・・」これは世界中共通していると思われる。その場の雰囲気をコントロールする特別な設定であるが、言うまでもなく「暗示や集団催眠」のためであると思える。
●リチャード・メイヒューは英国リーズで行われた第3の波の集会に精神科医師やクリスチャン医師と参加し、「完全な集団催眠療法」であると憤って報告している。(今日における奇蹟いやし預言の「128-129員)又、そこには「器質的疾患」のいやしは皆無であった、集団催眠の心理操作をもって「聖霊の働きと呼ぶのは欺きである」としている。
 魔術の世界で世界超一流と言われるアンドレ・コールも、「会場全体がステージで、会衆ひとりひとりが演技者のようになり、人々が期待するように実行する宗教的心理ドラマである」、「この上なく美しい、インスピレーショナルな音楽でスタートし、会衆全体が、賛美、両手を上げること、手を叩くことに参加させ、2,3時間も続く中で、会衆は、彼が言うどんなことにも従うようになる」とあり、伝道者はしばしば次のように導く。「ご聖霊
が来て下さるように、頭を空っぽにして明け渡しなさい」「暖かい感じや何かのエネルギーが体の中にやってきているのを感じるでしょう。それは神様が働いておられる証拠です・・・」
●これらは他の宗教のいやしでも全く同じように使われている、催眠と暗示のテクニックである。しかし、イエス・キリストがなさったいやしの場に、一度でもそのような状況設定があっただろうか?勿論、一度もない。屡々敵対する律法学者たちの目の前で行われ、周囲にいる誰も理解せず、場の設定などで協力することもなかった。ブラセボ効果、暗示、催眠などは一切使わず、しかも誰もなしえない「器質疾患」の人たちを、殆ど瞬時に、しかも完全にいやされたのである。

6、死者の蘇り
●イエス様のいやしは「死人のよみがえり」もあった。ヨハネ11章のラザロ(死後4日目)、ルカ7章のやもめの息子、マタイ9章のヤイロの娘が記述されている。この3件の場合は、死人の復活は、その人に信仰がなかったのになされている。私は、イエス・キリストのよみがえりは意図的に少なくしていると思っている。なぜなら、全てのわざは、イエスがキリストであることを理解されるためになされたものであり、ただ、出会った人をいやす事や死人のよみがえりをして、その時に出会った幸運な人々を多くいやしたということではなく、記述された聖書を通して、全世界の、全時代の人類がイエスキリストを信じて救われるために「見本」のようになされたからである。
●したがって、一番大事なことは、イエス様による死者の蘇生が、ご自身の死からの復活と合わせて、信じる者全てに死を解決する方であることを教えている。これほど規模の大きい、愛による癒しと救いの道は他にはない。唯一、絶対の真理の道である。
●今日でも、死者をよみがえらせることができると主張する人たちがいる。しかし、その人たちは「生き返った」という人たちの氏名を公表することを拒否する。1971年にインドネシヤのリバイバルで何人かが生き返ったとの報告がなされたが、ダラス神学校教授のジョージ・ピーターズ博士が現地調査をしたところ、死人の復活は起こっていない、彼らは「意識不明の昏睡状態」からの回復だと判明したとのことである。
●このことで、最近ある牧師と話し合ったとき、彼のもとにアフリカから来る伝道師の集会への参加が呼びかけられたので、その電話に対して、「死人をよみがえらせるとは余計なおせっかいをする人ですね。天国に挙げられた人を、どうして、もう一度苦労の多い地上に呼び戻すのですか」と答えたとのことである。
●テロなどで殺害された子どもたち、あるいは先天性の重大な病や障害を持つ人、例えばサリドマイド禍の人々(片足だけのスイマーとしてパラリンピックに出場している方もいる)に対して、本当の愛情と能力があるのなら、人知れずに病院などに近づいて、黙っていやし、死から蘇生させてくれればいいのではないか。お金を取ったり、舞台設定をして「伝道者」だ、「癒し人」だと宣伝しないで、黙ってその良いわざをしてこその義人ではないか。
 そして、本当に「死からの蘇生:」があるのなら、世界中のマスコミがほっておくはずがない。本当は、偽ものだけが世界にはびこっているのである。キリスト教会がそれをマネしてはいけない。それは、「宗教の世界統一」というサタンの策謀に至るものである。

四、弟子たちが行ったいやし、しるし
1、使徒たちにもしるしの力が与えられていた
●使徒たちも、死人を蘇生させた:使徒9:36-42では、ペテロはタビタという女性を、信仰と無関係によみがえらせている。パウロも、二階から落ちて死んだユテコという青年をよみがえらせている。(使徒20章7-12)
●また、瞬時にいやした:美しの門にいた、生まれつき足のきかない男は、たちまち躍り上がって立ち、歩き出した。(使徒3:7-8)8年間中風で床についていたアイネヤも、直ちに起き上がった。(使徒9:34)使徒5:16では、「また、エルサレム付近の町から大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まってきたが、その全部がいやされた」と書かれている。(使徒5:16)使徒たちは、群衆の前で、何も隠さず、演出せず、(状況設定せず)いやしを行ったから、彼らの反対者たちも、どう反対したらよいかわからず、次のように言っている。「彼らは言った。『あの人たちをどうしよう。あのひとたちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない』」(使徒4:16)
●聖霊降誕のあと、彼らは一度も失敗せずにそれらをなし遂げた。勿論すべての病いだから、「器質的疾患」も多かったであろう。

2、しかし、弟子たちのいやしは、時間とともに変化してきた!
●使徒の働きの初期(教会が始まってすぐ)は、使徒たちによって多くのいやしがなされた。使徒19:11-12では「パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出ていった」とある。しかし、聖書は、その力はパウロ自身のものとは書かず、「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた・・・」との言葉で始まっている。
更に、そのいやしの力は生涯の間にだんだん衰えてくる。パウロ自身の、激痛を伴う病気もいやされなかった。(Ⅱコリント12:7-9)目の病気も患っていたが、それも治らなかった。(ガラテヤ4)14-15,6:11)
●聖書にあるパウロがなしたしるしの最後は、船が難破して上陸したマルタ島での癒しとマムシの害を受けなかったことであるが、ローマの牢獄にいる間に書かれたピリピ書やテモテ書によると、トロピモという同労者を、病気の故にミレトに残し、(Ⅱテモテ4:20)テモテに対しても、「胃のために、またたびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と書いている。⇒普通の医療行為を進めている
●へブル書が書かれた紀元68-69年頃には、しるしと不思議はすでに「過去のこと」として書かれている。「・・・この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議と様々のちからあるわざにより、・・・あかしされました。」もし、このへブル書が記述された当時にも、しるしと不思議が残っているならば、へブル書の記者(おそらくパウロ)は、過去形では書かず、「今起こっている奇蹟を見なさい。これこそ神がなさっているしるしです…」などと書いているはずである。

五、「宣教命令」の解釈の間違い
1、聖書を見るといやしは時代による差が大きい
●「奇蹟」「癒し」は、いつも起きることではない。聖書を見ても、それは限られた時しか
起きていない。まず、創造の後は、ノアの洪水までの約1500年間一切記述がない。洪水後のアブラハムの時代(BC2200頃)からイザヤの時代(BC700年頃)までの約1500年間で、神が人を用いて起こした奇蹟はたった8例しかない。アビメレク(創世20:17)、ミリヤム(民数12:1-15)、イスラエルの民(同212:4-9)、ヤロブアム(Ⅰ列王13:4-5)、エリヤとやもめの息子(同17:17-24)、同エリヤとシュネムの女の息子(Ⅱ列王4:18-37)、エリヤとナアマン(同5:1-14)、ヒゼキヤ(同20:1-11、Ⅱ歴代誌32:24-26、イザヤ38:1-22)。さらに、イザヤの時代以後、キリストが来られるまで、いやしや奇蹟は全く記録がない。
●聖書に記述されている奇蹟、しるし、悪霊追い出しを表にすると次のようになる。
旧約聖書 (約2千年間) いやしの回数 11回
福音書  (3年間)      同   無数
使徒の働き(30年間)      同   時々
書簡   (40年間)      同   なし

2、今日もいやしを主張する者たち
●何度も書いてきたように、偶像の神々の信奉者たちは、殆ど全ての教団で「癒しの奇蹟」を主張する。キリスト教会にも、20世以降急速に癒しを強調する者が増えている。その根拠をマルコ16章17-18とヨハネ14章12節「わたしを信じる者は、わたしのわざを行い、またそれよりも大きなわざを行います」に置く。
●まず、ヨハネ14:12の「わたしのわざ」の解釈が間違っていると思う。イエス・キリストのわざとは、いやしだけではなかった。わずかなパンと魚から男だけで5千人分もの食料を作り、水をワインに変える創造の奇蹟や、暴風雨を一瞬に止め、水の上を歩くという自然界を支配する奇蹟も行った。このような奇蹟をしている人は、どこにもいないのに、ヨハネ14:12を根拠にしていやしの奇蹟だけが行われていると言うのは矛盾している。「私のわざ」「私よりも大きなわざ」とは、信仰によって変えられ、忍耐し、愛を広げていく信仰の成長であり、教会時代になって初めて可能になっていることである。それは、しるしを見たからでなく、しるしに無関係になされていく魂の救いと、その麗しい成長である。
●次に、マルコ16章17-1の伝道命令を見よう。これは「悪霊追い出し、新しいことば、蛇をもつかみ、毒を飲んでも害を受けない、病人のいやし」の5つセットで考えないといけない。蛇をつかんでも害を受けないと毒を飲んでも死なないの二つも当てはまらないといけない。つまり5つ全部が当てはまるか、当てはまらないかのどちらかであるが、明らかに当てはまらない。
●更に、この箇所は大宣教命令ではなく、全時代の全クリスチャンに言われていなくて、11弟子にだけ言われたことで、その約束は彼らの世代に実現した。だから、16:20節では、「そこで彼らは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」と書かれていることでわかる。初代教会の初期のことであった。主が言われた5つのしるしは、弟子たちによって実現したことが言われているのである。だからと言って、それは全時代に続くものではない。
●マタイ10章5-15節の弟子の派遣は、一層時代の違いを明確にする個所である。ここでは、弟子たちは、病人のいやし、死人を生き返らせ、ツアラアトの者をいやし、悪霊を追い出せと言われているが、同時に、「異邦人の道に行くな、「サマリヤの町に入るな」とも言われており、異邦人伝道はまだで、イスラエル伝道しか許されていない段階だと、明確に示している。
●マタイ28の18-20では、全人類への、全時代に続く宣教命令であるが、いやしやしるしは語られていない。「弟子とする」、「バプテスマを授ける」、「命令を守る」ように教えなさい、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」で完結している。「ともにいて下さる」これが最大の恵みであり、力なのである。この聖書理解が根本的に間違っていると、結局、主の御心に反した、人を惑わす大きな罪を犯す事となるから気を付けなければならない。
大寺俊紀

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