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「「イエス・キリストの救いの素晴らしさ」
 大寺俊紀
一、 私たち一人一人を愛して、見て下さっている
 私が、46才頃のことです。一人で家にいて、色々なことを考えていましたが、自分の「罪」のことが心に重くのしかかって、頭から離れず悩んでいました。「罪」は犯罪ではなく、世間ではよくあることかも知れませんが、私自身は自分の愚かさや心の冷たさなどが赦せなくて、悲しみ、苦しんでいました。お寺に行き、神社や墓地にも行き、色々と本も読みましたが、聖書は読んでいませんでした。
 ところが、自分の愚かさ、罪深さに我慢できず、心から悔い改めて、涙も流しているときに、頭の中で大変厳粛な力強い声がありました。「聖書を読みなさい」と。何度か声があって、私は本棚を探しました。「確か、中学を卒業した時にもらった聖書がある」と、思い出して、約30年間保存していた、ギデオン協会版の聖書を見つけてルカ伝を読みました。
 1時間以上読んだと思いますが、何も反発や疑問を覚えることもなく、15章まで来たときに、ある言葉が心に強く刺さりました。「あなた方に言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びわき起こるのです。」(15:10)です。そして、「自分の心と行動は全部見て下さっている。悔い改めたことを御使いたちの皆さんが喜んでくださっている。」と気づきました。
 たった一人の、取るに足らない一人の男のことを天から見て下さっていて、天国の御使いたちが喜んでくださる・・・なんと愛に満ちたスケールの大きい素晴らしいことかと、私は感激し、もう一度涙を流しました。
 その後、最終章まで読み終えて、イエス・キリストが私のために地上に来て下さり、彷徨っている私を見つけて下さり、罪を赦して下さるために、身代わりに十字架にかかって下さったことを理解しました。私だけでなく、悔い改める全ての人のためにそうして下さったと。
 その日、仕事から帰った妻にそのことを話しました。そして、家族、兄弟の間で懸案となっていた両親の介護の問題で、私が世話をするからという条件で、二人を引き取ることも兄や妻に了承してもらいました。更に、その数日後から、日曜には教会の礼拝に行くことにしました。私の絵の生徒の中に、家族で教会に行っている方がおられたので、その方に相談して隣町の教会に行き始めました。
●このことで、私が皆さんに気付いて欲しいことがあります。それは、私たち人類は、自分の知識や経験で色々なことを知りますが、死後のこと、永遠の事、天国や地獄のことなどは殆ど何も知りません。一般常識程度の知識で、慣習や社会通念などに沿って判断します。しかし、人間が知ることはごく一部です。ところが、永遠に生きておられる創造主が、私たちを知っていて下さるならば、それはとても頼りになることです。私たちが「知っている」よりも、「知られている」のです。聖書を与えて下さった創造主は、私たちを愛して、ご自分を求め、気付くように待って下さっています。(2016.7.25)

「イエス・キリストの救いの素晴らしさ」
二、 明白な、天でのいのちの約束
 私がクリスチャンにさせていただく前に、お寺や神社、墓地に屡々行っていたという理由は、姉と妹が不幸ないきさつで亡くなっていたからです。特に妹は15歳の時の突然の「脳内出血」以後、回復することなく38才まで苦しんで亡くなりましたから、死後はどうしているのだろうか?平安にしているだろうか?・・・とずっと気にしていました。
 妹はイエス様を信じていて、少しでも体調が良い時は教会の礼拝に出かけていましたが、教会側から生前にコンタクトはなく何も聞けませんでした。(葬儀も仏式でした)
 姉の葬儀を挙げたお寺で、5年ほど前にある近隣住民の葬儀があって、「隣組」の縁で出席した際、僧侶の念仏に注目していました。99%理解できない念仏でしたが、最後に、~これは最近付け加えられたものと思えますが~次のような口語文の念仏で閉めました。「これから行く道、死者の道、二度と帰れぬ道。たった一人で行かねばならぬ」
 また、『知恵の書』で有名な般若心経の最後の『知恵のことば』は次のような意味だそうです。「般若波羅蜜多心経」の現代語訳、最後の次の言葉。(唐三蔵法師玄奬訳)
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボジソワカ!」
これは、次の意味である。「死んだ人よ。あの世に逝った人よ。全くあの世に逝った人よ。何もかもあきらめよ。」
 釈迦自身の教えも、二度と戻って来ないことを目指せ=「涅槃を目指せ」、であったと聞きます。涅槃とは「生きていた記憶すらないところ」という意味です。私は、これらの教えに希望を見出すことは出来ません。
 しかし、聖書には次のキリストの言葉があります。
*ヨハネ14章1~3節「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を「信じなさい。わたしの父の家には、住まいが沢山あります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、またきて、あなたがたをわたしの所に迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」イエス様は、ここで「住まい」=豪邸を約束されています。
*ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 聖書は、イエス様を信じる者には永遠のいのちが与えられることも約束しています。永遠の家の立派な住まいであり、豊かな光の中での生活です。また、イエス様は羊の門ですと言われ、わたし(キリスト)を通って入る者は救われ、平安と喜びが待っているとも言われています。
*ヨハネ10章9節「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」
 このように、私たちは彷徨っていた羊でしたが、イエス様を求めて下されば、その羊の門を通って、「死の道」でなく、「二度と帰らぬ暗い道」でもなく、明るい光の豊かな永遠の道に導かれます。

                                  
「イエス・キリストの救いの素晴らしさ」-3
三、 人の罪と死
●神=創造主とは?:「神」とは、創造主です。出エジプト記3章で、モーセが「お名前を教えて下さい」と尋ねると、「ヤハウエ=ありてある者、自存する者」であると答えられました。それは、「誰にも造られず、自ら存在する者、つまり永遠のいのちの方である」ということです。ご自身が永遠の方であり、全能の方であるなら、「限られたいのちの被造物」を造られるということは理に合いません。つまり、被造物にも死はなく、永遠のいのちを下さるはずです。
 事実、創世記1,2章を見ますと「死」がありません。しかし、創造主は、ひとに一つの決まりを課しました。それは、天使の堕落(悪魔)というものがあり、ひとがその悪魔から誘惑を受けること、しかも、その誘惑に負けて離反の罪を犯す事もご存じであったと思われます。ですから、主は最初のひとアダム(アダムは人の意味)に、ご自身に従順であることを求めました。そして、主から離反して自分が勝手に善悪を決めて行動する=自分が主の座に座るならば、私とのつながりが切れることを告げました。主に従わないで勝手に行動することを「罪=的外れ」と言い、つながりが切れることを「死」と呼びます。
 アダムと妻エヴァは、主の声を聞かず、悪魔の声を聞き、自分勝手に生きる道を選びました。それが主の怒りを受けた罪です。3章に詳細がありますが、悪魔の誘惑に従った二人は、エデンの園から追放され、エデンの東に追いやられました。
●ここで、是非知って欲しいことは次の点です。
①主はなぜ、ひとが罪を犯さないように創造されなかったのか?という疑問です。それは、人には、他の動物と違って、ご自身と同じ自由を与えられたということです。自分の意思で主を愛し、信じ、従うことを求めておられます。動物の場合は、人間と同じく死がありますが、それは、人の救いが完成するまでだと書かれています。(ローマ8章)キリスト再臨の時に、人間に永遠のいのちと体が与えられる時、動物たちも死から解放されるのです。
②最初のひとアダムの罪により全ての人に死が入り、人は死ぬものとなった。しかし、死が宣告された3章15節には、「死を滅ぼす方」が女から生まれ、自らも傷を受けることが告げられました。これがキリスト預言の最初です。将来、女から生まれる方が救い主(キリスト)として働き、(十字架の死を経て)死を開放して下さるのです。
③全人類はアダムの子孫です。生まれつき完全で、創造主を信じ、従っている人は一人もいません。クリスチャンですら、進化論が正しいと信じる人が多い時代です。完全に義(正しい)の人はいません。マルコ伝7章は罪(的外れ)のことを教えています。
*マルコ7:21-23「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、館員、貪欲、よこしま、欺き、公職、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、・・・」何より、最大の罪=的外れは、創造主を信じ礼拝してこなかったことです。
④「あなたが、これまで創造主を信じ、礼拝し、従ってこなかったこと=繋がりがなかったことが「罪=的外れ」なのです。是非、このことに気付かれて、赦しを求めて下さい。

「イエス・キリストの救いの素晴らしさ」-4

四、  赦しの愛の「愚かさ」と大きさ
●聖書は大変不思議で正直な書です:パウロという方はローマ書、コリント書1,2他多数の書を執筆した方ですが、創造主なる神は、大変不思議な手法を用いて人類を救うと書いています。皆さん、少し想像してみてください。「キリストは創造主であり、審判者である」このことを全人類に示す方法として、皆さんならどう考えますか?
 一つは、キリストが「太陽のように」輝いて上空に鎮座し、全世界、全人類にその光輝くお姿を見せながら、大地震を起こし、強烈な光を放ち、雷鳴のように声を出されて「悪人」どもを天に引き上げて地上にたたきつけて裁かれ、深い穴を開けてそこに投げ込まれればどうでしょうか?100%間違いなく、人類全員がキリストを信じて従うでしょう。
 二つ目は、人を家畜のように従順に従うものとして創造されることです。これも簡単なことです。しかし、主はそうなされませんでした。むしろ、人を、罪を犯しやすい「自由な存在」として創造して下さいました。
●そこで、主は「キリストによる救い」を備えられました。その方法は、一でも二でもなく、「最も愚かに見える道」でした。パウロはローマ1:18でこう書いています。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」21節にもあります。「・・・神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」
23節では、「私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人には愚かでしょうが、・・・」27節「しかし、神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かなものを選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱いものを選ばれたのです。」
●最も愚かに見える道:とは、創造主ご自身が、へりくだって人となって来られ、私たちの罪を背負って身代わりに死なれた、十字架刑のことです。裁き主でありながら、力や威厳を示すのでなく、反対に「愚かな者に見える姿」を取って地上に来られ、罪人である私たちの身代わりに刑を受けて死んで下さったということです。(三日後に復活されています)
●愚かに見える道を取られた理由は?:パウロはローマ書1:27で書いています。「しかし、神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」と。「自分は知恵ある者、義なる者」と誇る者は辱めを受けます。逆に、「自分は愚かで弱い罪人」と小さくなる者を愛され、大きくされます。これは誰も自分を誇ることがないためです。29節)
●あなたはどちらですか?キリストの死を愚かな話と笑いますか?それとも、「そこまで愛して下ったのか!」と涙を流して感謝されますか?あなたが、自分の過去の罪に気付かれて、敢えて愚かになって下さったイエス様を、信じることが出来ますようにお祈りします。

「イエス・キリストの救いの素晴らしさ」-5
五、救われた者の生活-信仰生活の手引き―
◎前回までで、キリストの救いの概略を書きましたが、それは、ある程度聖書のお話をし、資料や入門書もお渡しした方への、「まとめ」として書いたものです。ですから、今後、更に救いを求める、知りたいという方、すでに信じることが出来たが、今後どのように歩めばいいだろうかという方のために、続きを書きましょう。内容は次の予定です。
①聖書を読みましょう。②罪から離れましょう。③教会の礼拝に出席しましょう―出来れば、教会の入門クラスを受けましょう―④デボーション(祈りとみことばの時間)の時を持ちましょう。⑤聖霊と愛に満たされた日々を送りましょう。⑥自分に預けられたタラント(賜物)を大切に。・・・
1)聖書を読みましょう:聖書は、新改訳、口語訳、新共同訳などがあります。私たちは新改訳を使いますが、他の訳本を持っており、時間の余裕があれば、他の訳も比較して読みます。色々な読み方がありますが、お勧めは次のことです。
イ) なるべく旧約、新約を通して1,2回は読み、全貌をつかんでください。聖書は、序文もなくはしがきもありませんからとっつきにくいですが、書かれた目的は「私たちの救い」のためです。旧約の場合は、最初は物語の展開に興味が起こり、律法では退屈し、文学書(詩編など)には教訓を感じ、預言書には厳しさと難解さを感じると思いますが、できれば解説書を見ながら読まれると、時代背景が理解できて興味が増すと思います(推薦:ヘンリー・H・ハーレー著「新聖書ハンドブック」いのちのことば者発行3,990円)レビ記などの旧約の律法書は、最初はさっと読むだけで良いと思いますが、実は、一つ一つがキリストにつながるもので、後ほどわかります。大事なことは先入観を持たず、「虚心坦懐」に読むことで、聖書は、決して難しい書ではありません。わからないことは、後日わからせて下さると期待し、鉛筆で小さく?マークを付けて置き、後日牧師さんに質問すればよいでしょう。
ロ) 聖書は66巻もありますが、毎日の新聞の朝夕刊(26頁として)の広告を除いて5日分くらいのものです。一日30員位の速度なら2か月もあれば読めます。また、こうした通読とは別に、毎日1,2章を読む聖書日課を作ってじっくり読むことも理解、成長に大事です。(教会では聖書日課をもって皆で守っているところが多いです)イエス・キリストによる救いを求め、成長することを願うなら、たとい無学な人でも、どの聖書の一節一句からでも、全聖書を理解し、多くの霊的祝福を受けるに違いありません。
ハ) 聖書はきわめてわかりやすい本で、学問のない人にもわかる本です。むしろ、学歴が高いと誇る人の方が、理解が困難かも知れません。「心の貧しい人は幸いです」「子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」「罪人を招くために来たのです」などのことばがあるからです。
ニ) 聖書は祈りながら読み、また読みながら祈らなければなりません。祈りとは「御心を教えて下さい」と求める=聞く祈りが大切です。
   
 「イエス・キリストの救いの素晴らしさ」-6
六、「罪から離れましょう」
◎今までは、聖書の約束、イエス様の救いを知らないで、「この世の流れに沿って」歩んでいましたが、それはこの世を支配する(空中の権威を持つ)サタンに従って歩んでいた、「空しい生き方」であったと聖書は教えています。また、「先祖からの言い伝えに沿って」生きてきたが、今はそこから解放されたのだともあります。具体的に見ましょう。
イ)死者を拝んできた:
 ルカ16章19節からはホームレスのラザロとある金持ちが描かれていますが、ラザロは死後御使いが「よみの慰めの場所」に行き、金持ちは「よみの苦しみの場所」に行きます。ラザロは慰めを受けていますが、金持ちは「火の中」で苦しんでいます。そして、「ラザロを弟たちの所に送って、」「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせて下さい」と懇願しています。この記述は、イエス様の死と復活の前ですから、聖徒でも天に挙げられていません。今は聖徒(クリスチャン)は死後すぐに天に挙げられますが、不信仰者がよみに下り、多くの者が苦しみの場所に行くことは決まっています。人間がどちらかを選ぶことはできません。
 日本にある仏教慣習の「お盆」は、釈迦の時代にはなかったものですが、始まった理由は、ある弟子が、「自分の死んだ母親を霊視すると、地獄で逆さ吊りされていて、可哀想だから慰めたい」と申し出て、「梅雨が終わったあとの夏に、三日間パーティーを開いて呼び寄せ、慰めたらよい」と言われて始まったというものです。ということは、お盆の三日を過ぎれば362日間何処でどうしているのでしょうか?想像して下さい。希望がありますか?
ロ)創造主以外のものを礼拝することは「偶像礼拝」として裁きを受ける:
出エジプト記20章に次のことばがあります。十戒の第一戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」第二戒「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・」
 ローマ書1章25節の「罪」の説明でも、「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」と教えています。
◎造り主(創造主)を否定して、進化論科学(人間の知恵)を認める者も同じ罪を犯していると思います。自分のお金や地位、名誉、栄光などに頼り、それを誇る者も、それらがその人の「偶像」となっています。
◎創造主と救い主キリストを信じないで、礼拝してこなかったことが最大の罪です。
ハ)ことばの罪、心の罪、その他の罪:
◎*マルコ7:21-23(資料の3ページ)に書かれていた通り、私たちは的外れ(罪)を犯してきました。悔い改めて今後も継続しないようにしましょう。罪だと気付くことがあれば悔い改めましょう。イエス様の血はすべてを赦してくださいます。」
続く

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